・大宝城は貞永元年に下妻修理権亮氏長政によって築かれたのが始まりとされます。
下妻長政は小山城の城主小山朝長の次男として生まれ、寛喜2年頃に常陸国新治郡下真(下妻)郷の地頭職に就任した事から地名に因み「下妻」姓を掲げました。
長政は寛元2年に鶴岡八幡宮の放生会に随兵として供奉しており、地位が確立したと思われます。
南北朝時代の城主である下妻政泰は小山長政の孫に当たる人物で、下妻郷の地頭職を引継ぎ、南北朝の動乱時には南朝方に属し、興国2年/暦応4年には大宝城に興良親王と春日忠状顕国を招き入れています。
興良親王は後醍醐天皇の王子である大塔宮護良親王の王子で母親は北畠師重の娘、南朝からは征夷大将軍に任ぜられ、常陸合戦の拠点である小田城に南朝方の有力武将だった北畠親房から迎え入れられています。
しかし、同年11月に小田城の城主だった小田治久が北朝方に転じた為、春日顕時が興良親王を奉じて大宝城に退去しています。
一方、北畠親房は大宝城の大宝沼の対岸に位置する関城に入り、両城が常陸南朝方の拠点として機能しました。
それに対し、北朝方の有力武将だった高師冬は大宝城と関城が四方を沼地で囲う堅城だった事から、周囲の支城を各個撃破しながら両城に迫りました。
危機を察した北畠親房は白河領主結城親朝に援護を要請したものの、親朝も白河領に侵攻した北朝勢に対応していた為、援軍を割ける程の兵力が無く、興国4年/康永2年に降伏し北朝方に転じています。
さらに、大宝沼を介して大宝城と関城が緊密に連絡していた水路が遮断された事で孤立化が余儀なくされ、次第に追い詰められていきました。
同年11月11日、北朝方が両城に対して総攻撃が行われると、翌日には落城、北畠親房と春日顕国は城外に脱出出来たものの、下妻政泰と関城の城主である関宗祐・宗政父子は討死しています。
大宝城は大宝沼に突き出た舌状台地の突端に築かれ、東側と北側、西側の三方は断崖で、南側の台地との接続部には空堀を配し敵方の防衛としています。
城域は東西288m、南北576m、北端に本丸、南方を大手筋とし、東側に搦手が設けられていました。
大宝城の跡地は大宝八幡宮の境内を中心として住宅街になっていますが、現在も土塁の一部が残され、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
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