・石神城が何時頃築かれたのかは判りませんが、中世、長く当地を支配した石神氏が居城として利用しました。
石神氏は桓武天皇の曾孫高望王の子供、平国家の後裔大掾氏の庶子である鹿島氏の庶子とされ、「鹿島大宮司系図」と「新編常陸国誌」によると、鹿島(平)成幹の子供である玉造憲幹が行方郡石神村に配され、二男の幹安が石神二郎を名乗ったと記されています。
徳治2年の下知状によると鹿島社大禰宜能親と、常陸国石神地頭六郎四郎幹親、六郎五郎定幹等と、鹿島神宮の供領米の事を相談した事が記されています。
その後、粟生城の城主、粟生氏の命を受けた石神氏が当地に配され、粟生城の出城として石神城が築かれたとされます。
応安7年に香取神宮の神官の命により編纂された「海夫注文」には「たかはまの津石神知行分」と記されており、少なくとも南北朝時代には石神氏が高浜の津の領主だった事が窺えます。
高浜の地は利根川左岸、石神城から見て西側の隣地に位置し、当時は利根川舟運の拠点だったと思われます。
応永14年に主家で鹿島神宮大行事を務めた鹿島憲幹が鹿島神宮の社領を侵犯し、神主の中臣氏が鎌倉府に訴えたところ、それが認められ応永15年に所領が没収され、石神氏もこれに連座し知行が取り上げられています。
応永22年に疑いが晴れた事で知行が返還され領主として復権しています。
弘治4年に石神氏は現在の鹿島氏粟生の領主で同族とも云われる粟生氏と激しく対立し、両氏とも没落しています。
その後は鹿島氏一族の支配下に入ったと思われますが、天正18年に発生した小田原の役で北条氏方に加担した為、積極的に豊臣家と関係を結んだ佐竹氏によって当地からは一掃されています。
天正19年に佐竹氏の一門で、佐竹東家4代目当主佐竹義久の知行地となり文禄4年の中務大輔(佐竹義久)当知行目録に「五百石五斗七升 たかはま・石かミ・柴崎」と記されています。
慶長7年、佐竹宗家である佐竹義宣は関ヶ原の戦いで東西中立の咎を受け久保田藩に移封となり佐竹東家もそれに従った事から石神城も廃城になったと思われます。
石神城は、単郭の平城で、城意気は石神氏の檀那寺とされる花光院の境内一帯とされ現在も花光院東側には堀跡、北側には土塁と思われる土盛が残されています。
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