・金砂山城は治承4年に佐竹秀義によって築かれたと伝えられています。
佐竹秀義は佐竹家2代当主佐竹隆義の三男として生まれました。
佐竹氏は源義光の孫に当たる源昌義が常陸国佐竹郷を本貫とした事から地名に因み「佐竹」姓を掲げた氏族で、本来、源氏の名族ですが、源頼朝の挙兵には同調せず、石橋山の戦いにも参陣しませんでした。
その間、佐竹隆義は上洛し平清盛、又は平宗盛の奏請により従五位に叙任され平家方で重きを成しています。
頼朝が平家打倒の為、上洛を画策した際、背後の佐竹氏の存在が問題視され、頼朝に従った上総広常は佐竹義政・秀義兄弟を呼び寄せ会談を申し入れました。
義政はそれに応じたものの、不審を察した秀義は「すぐには参上出来ない」とし金砂山城に引き上げました。
その予感は的中し、義政は広常によって謀殺された事から対立は決定的となり、数千とも云われる頼朝軍が佐竹領に侵攻、秀義は金砂山城に籠城し徹底抗戦しています。
金砂山城は要害堅固の城として知られ、力づくでの攻略は出来ず、佐竹一族である佐竹義季を凋落させ、金砂山城内に潜入出来る間道を聞き出し、そこから兵を送り込んだ事で城兵が混乱し落城に至っています。
建武3年、南朝方有力武将で陸奥鎮守府将軍北畠顕家と北朝方だった佐竹氏が激しく対立し、さらに南朝方の楠木正家に居城である太田城に侵攻された為、佐竹貞義は籠城に不向きな太田城を放棄し金砂山城に立て籠もっています。
金砂山城では度々激しい戦いが繰り広げられ、その中でも南朝方の那珂通辰が攻略に失敗し敗走の中で増井の勝楽寺で一族34人と共に自刃しています。
室町時代には一族の山入氏との対立が顕著となり、延徳2年には反乱軍が太田城を急襲し、佐竹義舜は母親の実家である大山氏を頼り孫根城に退去しています。
その後、義舜は大山城に入りましたが、明応9年に山入氏義の侵攻を受け、金砂山城に落ち延びています。
文亀2年には金砂山城で激しい攻防戦が行われ、落城寸前まで追い込まれましたが、突如として天候が悪化した事で、形勢が逆転し、山入勢は撤退しています。
金砂山城は標高412mの山頂付近に築かれた中世の山城で、現在は佐竹氏の祈願所だった西金砂神社の境内として利用されています。
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