・河合城は鎌倉時代に築かれたとも云われ、佐竹家の家臣である川井氏が長く城主だったとされます。
川井氏は藤原秀郷の後裔である那珂氏の一族である江戸氏の一派とも云われています。
ただし、佐竹家5代当主佐竹長義は4代当主佐竹義重と河井平六三郎忠遠の娘との間に生まれた子供とされ、これが事実とすると江戸氏発生以前からの氏族という事になり、別系統という事となります。
天正年間に伊達政宗が二階堂氏が守る須賀川城に侵攻した際には佐竹方の援軍として川井甲斐守久忠(忠脩)が派遣されています。
天正19年に佐竹義宣は豊臣家の後ろ盾を得て常陸国を統一すると佐竹氏によって滅ぼされた江戸氏の旧領である那珂川や桜川流域が直轄地となり、上流部の池野辺には川井大膳、有賀には川井備前が配され、北方の最前線である赤館城(福島県棚倉町)には川井伊勢守忠遠が城代となっています。
慶長7年に佐竹義宣が関ヶ原合戦で東西中立を保持した咎により久保田藩に移封となり川井氏もそれに従った為、河井城は廃城になったと思われます。
一方、延徳元年に奥州の諸将が佐竹領に侵攻し当主である佐竹義治が絶体絶命になった際、小野崎通網が身代わりになって討死し、その恩賞として跡を継いだ小野崎通老に石神領350貫と川合領350貫を与えている事から、そもそも河合城の城主は川井氏でない可能性があります。
その石神小野崎氏も慶長7年の佐竹氏久保田藩移封に随行した為、何れにしてもこの頃に廃城になったと思われます。
河合城は現在のJR水都線の「河合駅」周辺を主郭、それを取り囲むように東西に伸びた二之郭で構成されていたようです。
当時は山田川と久慈川に囲われていた事から天然の外堀に見立てていたと思われ、その氾濫によって形成されたと思われる湿地が広がっていたのかも知れません。
河合城の東南に位置する河合神社は日本三大実録に従五位下と記載された河江神に比定されている神社で、方角から城の裏鬼門鎮守だったと思われ川井氏から篤く崇敬されたようです。
現在でも郭を形成した微高地や一部土塁と思われる土盛が残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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