・頃藤城が何時頃築かれたのぁは判りませんが、山田右近太夫道定が城主だったとされます。
建治年間に佐竹家6代当主佐竹義胤の4男である小川五郎宗義(大和守義継)が城代として当地に赴任しています。
宗義については「新編常陸国誌」と「水府志料」には義胤の4男としていますが、一般的には義胤と岩城氏、又は岩箇崎氏の娘との次男又は三男に小河刑部義綱(宗義・小川三郎)が見られ、現在の福島県いわき市小川町を与えられたとされます。
義綱は小川町に居城となる中柴外城を築き、城下には長福寺を開創している事から、大子町頃藤領は飛地となり、家老だった神長氏や清水氏が城代としてその任を担っています。
因みに頃藤城の久慈川の対岸にもいわき市小川町の長福寺と同じ寺号である長福寺があり、由緒によると文明元年に小川和泉守義房が太田の耕山寺の大通詮甫を招いて津宗から曹洞宗に改宗し、文明2には頃藤城の城内に遷しています。
小川氏の本領だったいわき市小川町は寛正3年に岩城親隆の台頭により失ったと見られ、飛地だった頃藤に本拠地を遷し、頃藤城や菩提寺の長福寺の整備が行われたと思われます。
その後、長福寺が頃藤城の城内に境内を構えている事が問題となり、永正3年に長福寺二世亀山香磬と小川義勝が協議を行い現在地に遷っています。
文明10年に発生した佐竹宗家と山入氏との合戦で山入氏の一族だった小田野氏は佐竹宗家方に転じ、永正元年には小田野義正が山入氏義、義盛父子を捕らえ、下野国茂木で斬首する功績を挙げ、永正12年には佐竹義舜が小川領を安堵しています。
「新編常陸国誌」には山入氏義は一族である小田野氏が裏切って、その首を以て佐竹義舜に降伏し、長福寺の境内に氏義を葬り墓碑が建立されたとの説を紹介しています。
その後、再び小川氏が頃藤城の城主に復権したようで、大沢根渡神社の大永5年2月の棟札には大旦那小河弾正左衛門種義、天文18年12月の棟札には大旦那小川民部少将義長と記されています。
天正18年に発生した小田原の役で豊臣方として功績を挙げた佐竹氏は常陸国一国を安堵された為、天正19年に北条方や小田原参陣を怠った鹿島、行方地方の領主達を太田城に集め捕縛、頃藤城には島崎安定父子が軟禁されました。
当寺の城主小川大和守は、家臣の清水信濃に命じ安定は鉄炮で謀殺、子供の徳一丸は自刃させられています。
安定の室は小川大和守の娘だった事から大和守からみると徳一丸は外孫に当たり、余りの悲惨な出来事だった事から、清水家は祟りを恐れ邸宅に祠を設け、安定父子を供養したと伝えられています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立の立場を採った為、慶長7年に久保田藩に減封となり小川氏もこれに従った事から頃藤城は廃城となっています。
頃藤城は大きく蛇行した久慈川に突き出した半島状の地形に築かれた城郭で、北側と東側、南側の三方が久慈川によって囲われ、崖地となる天然の要害となっています。
大きく3つの郭で構成され、新編常陸国誌によると本丸1440坪、二之丸960坪、三之丸1680坪と記されています。
現在は宅地や畑地、道路の開削等で多くの遺構は失われましたが、城址を思わせる地名や土塁と堀切の一部が残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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