| ・大島城が何時頃に築かれたのかは判りませんが、戦国時代には領主である小田氏の一族に当たる小田式部少輔が居城として利用していたとされます。
弘治2年の事と思われる正木弥五郎宛ての北条氏康の書状には「去五日、於常州大嶋台遂一戦、敵千余人討捕候、不思議之仕合、満足大慶、可為御同意候与令推察候、不慮之合戦故、惣手者不合候、遠山・太田美濃守・結城衆以三手切勝候、恐々謹言、卯月八日 正木弥五郎殿 同源七郎殿」と記されています。
解説すると弘治2年に結城政勝と小田氏治との間に海老ヶ島を巡る激しい攻防戦が繰り広げられており、大島城がある大嶋台でも、その一端が行われたと思われます。
結城政勝は北条氏康の後ろ盾を得て、氏康の命により武蔵岩付城主太田資正と江戸城主遠山綱景の援軍を得て、小田領に侵攻、大嶋台で偶然小田勢に遭遇し合戦となり、結城、太田、遠山勢が三方から攻め立て敵兵千余を討ち取り勝利を収めたとされます。
大島城は小田氏の本城である小田城の北方に位置し、真壁城とを結ぶ街道と下館城や海老ヶ島城とを結ぶ街道が分岐する交通の要衝で、中間に位置していた事から、小田城の有力な支城として機能していたようです。
その後、台頭した佐竹氏の支配下に入ると、佐竹氏に従った真壁氏に与えられ、文禄4年に佐竹義宣が真壁義幹に発給した知行宛行状写によると「千五百仁十壱石仁斗仁升 大嶋」と記されています。
真壁義幹は真壁久幹の次男として生まれ、父親と同様に佐竹氏に従い、小田氏治との決戦の一つ手這坂の戦いで軍功を挙げ、式部大輔の名乗る事が許され、当地が与えられています。
大島領は真壁氏が支配する領地の中でも最大級の知行地で、長男の真壁房幹が配されています。
房幹は叔父で真壁家宗家の真壁氏幹の養子となり、文禄の役では氏幹の代わりに真壁勢を率いて朝鮮半島に赴き、慶長3年頃に真壁家を継いだ為、本城である真壁城に遷ったと思われます。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を保持した咎で、慶長7年に久保田藩(秋田)の減封、房幹もこれに従い常陸国を離れた為、大島城も廃城になったと思われます。
大島城は500m四方の微高地に築かれた平城で、概ね南北に連なる3つの郭で構成されていたと推定されています。
遺構の多くは失われましたが、南西に位置する墓地に土塁と思われる土盛や堀跡と思われる地形が僅かに残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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