・小川城は建久年間に下河辺政平が築いたと伝えられています。
下河辺氏は藤原秀郷の流れを汲む太田行政、又はその息子である太田行光の子供として生まれた行義が源頼政に従い下総葛飾郡下河辺荘の荘官として下総国古河に遷り住み、地名に因み「下河辺」姓を掲げたのが始まりとされます。
その子供である政義は源頼朝の近習として各地に随行し功績をあげ、その恩賞により常陸国南部を与えられ、頼朝の命により雑税が免除されています。
政平は政義の子供とされ、当地に配されると地名に因み「小川」姓を掲げ、朝平、義忠、義広と城主を歴任したようです。
戦国時代になると小川氏は没落し、当地は小田氏の支配下に入り、享禄元年には小田城の城主小田政治の家臣である薗部豊後守兼泰が5千石で配されています。
跡を継いだ薗部宮内大輔兼彦は、敵対していた大掾氏に転じ、娘を大掾慶幹と縁組させ縁戚になった事から、小田政治の逆鱗に触れ小川城を追い出されています。
小川城には政治の弟である小田左衛門尉が配され大掾氏に対した事からも当地の重要性が窺えます。
天文15年、薗部兼彦は水戸城の城主江戸重通の支援を受けて500の兵を率いて小川城を急襲、激闘の末、小川城の奪還に成功しています。
しかし、元亀2年に小田氏治勢が小川城を攻めると兼彦は敗北し結城城の城主結城晴朝を頼り落ち延びています。
「薗部状」によると「薗部宮内大輔方の事は強敵境の地為るにより、屍夜の苦労様々の計策、要害堅固の路」と当時の様子が記されています。
その後の経緯は判りませんが、兼彦の跡を継いだ薗部兼基が小川城の城主に復権しており、天正16年に佐竹勢に攻められ行方不明となっています。
小川城には佐竹義重が入り、大掾方の支配下となる玉里の城攻略の拠点としています。
文禄3年、佐竹家の家臣で茂木氏16代当主茂木治良が配されましたが、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を保持し、慶長7年に久保田藩に減封、茂木氏も従い当地を離れています。
代わって、出羽角館から戸沢政盛が常陸国多賀郡、茨城郡等4万石で入封しています。
関ヶ原の戦いで秋田勢は東軍として行動したものの、出羽国統一を画策する最上家の讒言により悉く減封となり、戸沢家も4万5千石から5千石が減じられています。
慶長11年に政盛は本城を松岡城に遷すと小川城は廃城となっています。
元和8年に政盛が新庄藩に移封になると当地は水戸藩領となり、小川城の城址は藩の運漕庁、稽医館、小川郷校等に利用されています。
小川城は薗部川東岸、比高約20mの高台の先端に位置し、現在の小川小学校の南東側に本丸、北西側に二之丸、小川公民館一帯に三之丸が配され、それぞれ、深い堀と土塁で囲っていたようです。
現在、多くのの遺構は失われましたが、小学校の西側と北側の切通状の道路が堀跡と思われ、規模感等は感じられます。
茨城県:城郭・再生リスト
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