・谷田部城は鎌倉時代後期に小田宗寿が築いたと伝えられています。
小田宗寿は小田氏5代当主小田宗知の子供とされ、常陸国河内郡八田部(谷田部)郷に配され、地名に因み「谷田部」姓を掲げた事から谷田部氏の祖と云われています。
当初、谷田部氏は「小田家一門六家」に列格し、最盛期には1万6千石を領する小田家の有力一族でしたが、戦国時代には同族の岡見氏の配下のような立場だったようです。
岡見氏は清和源氏の祖である源経基の孫に当たる熊王丸頼道の後裔、栗原太郎信勝が保元の乱の功績により常陸国信太・筑波・新治郡を賜り信勝の子供の1人が岡見郷に配され「岡見」姓を掲げたのが始まりとされます。
元亀元年に下妻城の城主多賀谷政経に強襲され谷田部城は落城、城主だった岡見主殿介は一族である岡見治部少輔が守る牛久城に撤退、城将の1人だったと思われる谷田部三郎左衛門壽教は本家筋の小田家に逃れています。
谷田部城を支配下とした多賀谷政経は弟である多賀谷淡路守政伯を配している事から、当城は小田氏に対する重要拠点だった事が窺えます。
天正8年に小田原北条氏の支援を受けた岡見氏は1千の兵を率いて谷田部城を攻め、多賀谷淡路守は討死、城も落城しています。
しかし、救援に駆け付けた多賀谷政経に攻められ落城、城主だった岡見頼忠は流れ矢に当たって討死し再び多賀谷氏の手に落ちています。
政経は子供である多賀谷重経を配し重経が多賀谷家の家督を継ぐと、谷田部城には家臣である渡邊越前守や平井手伊賀守等25人を配しています。
天正17年には岡見治広が谷田部城に侵攻し奪還を試みましたが、失敗に終わっています。
天正18年、多賀谷氏は徳川家康の次男結城秀康を養子に迎えた結城家の与力大名に組み込まれた為、それに反発した重経は家を2つに分け、嫡男の三経を結城家に従わせ、自らは佐竹家から宣家を養子に迎え家督を継がせています。
慶長7年に佐竹義宣が関ヶ原合戦で東西中立を選択した事に咎を受け久保田藩に移封となり、多賀谷宣家もそれに随行した為、谷田部城は廃城になったと思われます。
谷田部城は谷田川と西谷田川に挟まれた台地状の地形に築かれた平城で、江戸時代に谷田部藩が立藩すると城址に陣屋が設けられ、城内に陣屋町が形成された事等で遺構は悉く消滅し、所々に見られる僅かな段差等が当時の名残と云われています。
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