・和歌城の明確な築城年は不詳ですが、室町時代に当地の領主だった和歌十郎によって築かれたと推定されています。
和歌氏の出自は判りませんが、地名が久米村寿の娘である和歌姫の墳墓(古墳)があった事に由来していた事から、藤原北家小野崎氏流の一族の出で、常陸国久慈郡久米郷を本貫とした久米氏と関係があるかも知れません。
文明年間に下妻城の城主多賀谷氏が台頭し当地まで版図を拡大すると、和歌十郎もその勢力下に入ったと思われます。
しかし、和歌十郎は永正年間に小田原北条氏に転じた為、対立関係にあった多賀谷家植は家臣の赤松民部に命じて和歌城を攻めされ、その後は赤松氏の支配下に入っています。
赤松氏は村上源氏、堀川大納言定房の孫の源師季を祖とし、建武の新政に尽力した事から播磨国守護職に補任されたものの、一族の一部が観応の擾乱で足利直義方に与し薩 峠の戦いで敗北、その1人だった赤松祐弁が当地に落ち延び、当初は古河公足利氏満、後裔は多賀谷氏に従ったとされます。
八千代町には赤松祐弁が勧請したと伝わる八幡神社が鎮座し、赤松山持宝寺不動院の本尊である木造不動明王坐像は祐弁の念持佛だったと伝えられています。
又、下妻町に境内を構えている霊雲泰鳳山円福寺は応永年間に足利氏満の命で宍戸希宗と赤松祐弁が香取社の別当として創建したと伝えられています。
天正15年、多賀谷重経の命により赤松常範が隣地に太田城を築城、竣工する天正18年まで重経の嫡男である多賀谷三経が和歌城に入っています。
多賀谷家は豊臣政権下で領土を安堵されていましたが、主家の結城家が徳川家から養子を迎えた事から、それに反発した重経は家を2つに分け、三経を結城家の与力、自らは佐竹家の与力となり、赤松家は三経に仕えたようです。
慶長6年に結城秀康の越前国移封に伴い多賀谷三経も随行した事から太田城、和歌城は共に廃城となっています。
赤松家一族の多くは帰農したとされ、赤松家の墓域と伝わる熊野堂塚は現在も子孫が所有し、江戸時代末期には赤松新右衛門正門・正範が河尻不動院の墓地に赤松祐弁の墓碑を建立しています。
又、和歌城主郭の一角に建立されている石造五輪塔は赤松祐弁を供養する為に建立されたと伝わるもので、貴重な事から八千代町指定文化財に指定されています。
和歌城は主郭、二之郭、三之郭で構成され、各郭は堀と土塁で囲われ、周囲は湿地帯や沼状の地形だった事から対岸から、城に取り付ける船入場が整備されていました。
現在も和歌城の北西隅には土塁の一部が残されています。
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