・飯沼城は南北朝時代に桜井尊房が築城したと伝えられています。
飯沼城の城址の隣地に境内を構えている三池山普門院福性寺は元弘年間に桜井氏が菩提寺として開創したち伝わる天台宗の寺院で、境内には桜井尊房の墓が建立されています。
一方、「米原文書」によると応永2年条に小田・宍戸氏の一族として飯沼山城守を名乗る人物が記され、飯沼郷が宍戸荘、又は小鶴南荘に含まれていた事から小田氏や宍戸氏の一族が当地を本貫とし地名に因み「飯沼」姓を掲げた可能性があります。
又、福性寺の古文書によると飯沼城の城主は南北朝時代に南朝方に与し、戦国時代には桜園氏が城主だったと記されています。桜井氏と桜園氏との関係は判りませんが一族、あるいは誤記かも知れません。
天正年間以降、桜井氏は水戸城の城主江戸氏に従っていた為、天正18年に佐竹義宣が水戸城に侵攻すると桜井氏も江戸氏と共に攻防戦に参加しましたが、水戸城は落城、飯沼城も開城し佐竹氏方に引き渡されたと伝えられています。
当地に伝わる伝説によると、佐竹勢が飯沼城に追ると、城主である桜園氏は木曽義仲の「火牛の計」に倣って近隣の農家から牛を借り受け、牛の角に松明をくくり付け、敵兵が城に取り付いた刹那、牛を敵兵に向けて追いやりました。
牛は火の熱さと異様な雰囲気により暴れ出した為、敵陣は大混乱となり佐竹方に大きな被害を齎しました。
しかし、多勢に無勢、借り受けた牛も底を付き遂に飯沼城は落城、牛が火の熱さを逃れる為に飛び込んだ用水池は牛追池と呼ばれるようになり、現在も池の水を抜くと戦場に散った牛の骨が出てくると伝えられています。
飯沼城は本郭を中心に北側と南側に郭を設けた三連郭の城郭で、本郭は比高5m程、50m四方の規模で周囲を土塁で囲っていました。
北郭は小学校の校庭、南郭は福性寺の墓地として利用されていますが、本郭跡には土塁や空堀の遺構が残されています。
飯沼城の城址は貴重な事から茨城町指定史跡に指定されています。
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