・小張城が何時頃築城されたのかは判りませんが、戦国時代の天正年間には岡見氏の家臣である只越山城守善久が城主だったとされます。
江戸時代中期に成立した軍記物とされる「関八州古闘録」等によると天正14年に佐竹氏の後ろ盾を得た多賀谷氏が岡見氏領に侵攻した際、小張城も攻撃対象となりました。
善久は少数の家臣を率いて小張城で迎え撃ち激しく抵抗したものの落城、善久は少数の家臣を率いて小張城で迎え撃ち激しく抵抗したものの落城、善久も壮絶に討死したと記されています。
茨城県つくばみらい市新戸に境内を構えている西念寺の住職は只越家一族の後裔と伝えられています。
小張城をはじめ谷田部城や足高城等、牛久城の有力支城は次々と落とされ岡見氏は窮地に追い込まれましたが、豊島氏や高城氏等の援軍により牛久城を死守しています。
小張城は多賀谷氏の支配下に入り、平手伊賀守や安岡豊前守等が城主を歴任しましたが、慶長5年に発生した関ヶ原合戦で、太田多賀谷三経は東軍の結城秀康に従軍し功績を挙げ、戦後は秀康に従い越前国に遷り、下妻多賀谷宣家は佐竹義宣に従い東西中立を保持した為、慶長7年に義宣と共に久保田藩(秋田)に遷り当地を離れています。
慶長8年に松下石見守重綱が当地に入封し小張藩を立藩、小張城も藩庁、藩主居館として整備されたと思われます。
重綱は父親の松下之綱の代から豊臣家に仕え、天正16年には右兵衛尉に任官され、慶長3年には之綱の死に伴い松下家の家督と、遠江久野領1万6千石を継いでいます。
慶長5年の関ヶ原合戦では東軍として本戦である関ヶ原で主力の石田隊と交戦する等功績を挙げたものの、慶長8年に幕府から許可を得ず石垣を築いた為、小張の地に減封となっています。
重綱は、鉄炮や大砲に利用する火薬を取り扱う専門家だったとも云われ、戦勝祝いや犠牲者の供養の為に陣中で行ったと云われる小張松下流綱火を考案、現在でも8月24・25日に開催される小張愛宕神社の例祭で奉納されており、国重要無形民俗文化財に指定されています。
慶長19年の大坂の陣で軍功を挙げた事で元和2年に2万800石に加増、さらに元和9年に下野烏山藩に移封となり小張藩は廃藩、小張城も廃城となっています。
寛永2年に関東郡代の伊奈忠治が城址に陣屋を設けて鬼怒川河川工事や谷原領開拓工事の拠点として利用しています。
延宝7年に松平乗政が1万石で入封し改めて小張藩を立藩、石高から察すると陣屋規模の藩庁が設けられたと推察されます。
乗政は松平乗寿の次男として生まれ、徳川家光と徳川綱吉の近侍、徳川家綱の御小姓等を歴任、承応3年に乗寿が死去すると遺領から5千石分を分知され旗本となり、延宝7年に若年寄に就任すると常陸国河内郡・真壁郡5千石が加増され小張藩主となっています。
その後、延宝9年に下総国結城郡5千石が加増、天和2年に奏者番に抜擢されると5千石が加増され小諸藩に移封になった為、小張藩は廃藩となり小張城(陣屋)も廃されています。
小張城は比高6m程の台地に築かれ、図面等が伝わっていなく、遺構も鹿島神社境内周辺の土塁以外は殆ど無い事から縄張り等の詳細は判りませんが、「重要遺跡報告書」では山王台付近が本丸、伊奈保育所付近が二之丸、小張小学校付近が三之丸としています。一方、「伊奈町史」等では小張小学校付近を本丸と推定しているようです。
茨城県:城郭・再生リスト
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