・古間木城が何時頃築かれたのかは判りませんが、鎌倉時代初期頃は稲葉氏が城主だったとされます。
茨城県常総市蔵持に境内を構えている願牛寺の由緒によると、建暦2年に常陸国入りした親鸞聖人が弟子の蓮位坊の勧めにより、蓮位坊の従兄弟にあたる古間木城の城主稲葉伊予勝重の保護になったとされます。
勝重は親鸞聖人を篤く帰依し、出家し弟子になると法名「一心坊」を与えられ親鸞の為に願牛寺を開創したと伝えられています。蓮位坊は源三位頼政の五代後裔と云われ、稲葉勝重も源氏一族とされます。
その後の詳細は判りませんが、渡邊軍功書(石塚家文書)によると戦国時代には渡邊氏が城主だったとされます。
渡邊氏は嵯峨源氏で源頼光の四天王に数えられた渡邊綱の後裔とされ、文亀3年当時の城主である渡邊新兵衛尉は北総の将士達と共に古河公方足利政氏方として野田城攻め、さらに、永正16年に椎津城攻め等に従軍し功績を挙げ政氏から感状と平塚村を知行地として賜っています。
その後は豊田氏やその一族である石毛氏に従い、1万貫を知行していましたが、多賀谷氏が台頭すると激しく対立するようになりました。
天文4年には縁戚関係だった館武蔵守の居城である向石毛城が多賀谷氏により急襲され館武蔵守は討死、向石毛城も落城しています。
館武蔵守の長子である播磨は、母親が渡邊家出身だった事から古間木城に落ち延びています。
永禄年間に多賀谷氏が侵攻すると石毛城の城主石毛政重を中心として千本木に夫人、当時の城主である渡邊周防守勝重も従軍し激しい戦いが繰り広げられましたが、決着がつがず結城氏の仲介により和睦が成立しています。
天正3年に多賀谷氏が手勢700を率いて古間木城に追ると、勝重は周辺の土豪達の協力を得て200余りの兵で立て籠もり籠城戦が展開されました。
渡邊勢の頑強な抵抗により古間木城が落ちなかった為、多賀谷勢は風上から火責めを行うと、城内の多くの建物が炎上しています。
城兵の多くは城を出て決戦に及んだものの激戦の末、古間木城は落城、勝重も討死し、渡邊家一族は多賀谷氏に降伏しています。
当地は多賀谷氏の管理下に入りましたが、多賀谷氏は慶長5年に発生した関ヶ原合戦で本家筋の佐竹家に従い東西中立を保持した為、改易、慶長7年に佐竹氏に従い久保田藩(秋田)に遷っています。
渡邊氏はこれには従わず帰農した為、古間木城は廃城となっています。
古間木城は東西120m、南北90m、舌状地形の突端に位置し台形の形状をしています。
東側と北側、西側の三方は沼地で囲われた要害で、残り南側には二重の堀切を設けて敵の襲来に備えています。
現在も渡邊家一族が土地を所有し、敷地内には土塁と堀切の一部が残されています。
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