・元々、真壁地域の中心的な城郭は真壁城でしたが、慶長11年に浅野長政が5万石で入封し真壁藩を立藩すると、中世の真壁城は破却されたようです。
長政は隣地に新たな真壁城を築き藩庁として整備、領内の開発にも尽力したものの、慶長16年に死去しています。
長政は当地に境内を構えている伝正寺に葬られ、真壁藩主は三男の浅野長重が就任しています。
長重は慶長19年に発生した大坂冬の陣の参陣や、元和8年の宇都宮城の収城使を務める等の功績を挙げた事から笠間藩への加増移封が持ち掛けられました。
しかし、長重は真壁には父親、浅野長政の菩提寺伝正寺がある事を理由に固辞すると、2代将軍徳川秀忠は伝正寺がある真壁周辺を飛地として認めた為、笠間藩の移封が決定したとされます。
一国一城令がある為、浅野氏が築いた真壁城は縮小されたと推定され、新たに飛地支配の為の陣屋が設けられています。
長重は笠間藩主になった後も、真壁陣屋で過ごす期間の方が長かったとも伝われ、寛永9年に死去すると父親と同じ伝正寺の境内に葬られ墓碑が建立されています。
跡を継いだ浅野長直は駿府城の城代や江戸城西の丸の普請、大坂城加番、朝鮮通信使の饗応役等の要職を歴任、赤穂藩主池田輝興の改易に伴い、赤穂城の受け取りを行い、そのまま赤穂藩移封が決定しています。
因みに、長直の孫に当たる赤穂藩3代藩主浅野長矩が元禄14年に江戸城本丸大廊下(松の廊下)で吉良義央を斬り付けた事が赤穂事件の発端となっています。
その後、笠間藩主が正保2年に井上家、元禄5年に本庄家、元禄15年に井上家、延享4年に牧野家と変遷したものの、真壁領は笠間藩の飛地だった事から安永6年から天明5年に天領だった期間を除き、陣屋は維持されたようです。
明治維新後に陣屋が廃されると、その後は真壁小学校、真壁町役場等となり、さらに、西側半分は市街地、東半分は真壁中央公民館や真壁中央公園、歴史民俗資料館等に利用されてきました。
現在の陣屋跡地の東側は公民館、図書館、資料館の機能を有する複合施設である「真壁伝承館」の敷地となっています。
真壁陣屋は幅5m、深さ2mの堀と土塁に囲まれ、真壁陣屋の西側に当たる現在の「御陣屋前通り」の中央付近には表門が設けられ、左右には五十間規模の長屋が配され、権威の象徴的な存在だったと思われます。
東側の庭園部分の発掘調査では大皿や擂鉢、茶碗、竹籠、樽、柄杓等が発見されています。
又、陣屋町は在郷町として真壁領の物資の集積地となり、特に木綿取引の定期市が開かれ、真壁・筑波郡周辺の縞木綿が集まる等活況を呈し、年間1万両を稼ぎ出していました。
現在でも天保8年の大火以降から昭和初期に建てられた数多くの町屋建築や、土蔵、表門等、国登録有形文化財に登録されている建物が残され、桜川市真壁伝統的建造物群保存地区に選定されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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