・中根長者屋敷は戦国時代に中根氏の居館として利用されたと云われています。
中根氏の出自は判りませんが、戦国時代の当主である中根与衛門は小田氏と関係が深い人物だったようです。
一説には祖先の中根与右衛門之丞佐幹は平将門の乱に際し、朝廷から平定を命じられた平貞盛、藤原秀郷連合軍に従軍し、猿島郡石井で将門が討ち取られた戦いにも参加していたとされます。
天正18年に小田原の役で豊臣方を鮮明にした佐竹義宣は常陸国54万石を安堵された事で、北条家に味方した大名や小田原参陣を怠った大名の一掃を惣無事令下で黙認されました。
義宣は水戸城主江戸氏を破ると、府中城にも侵攻し、激戦の末、城主だった大掾清幹は自刃に追い込まれ大掾氏は没落しました。
さらに義宣は小川城を攻める為に当地まで進軍すると、大掾氏の家臣で大掾氏滅亡後佐竹家に転じた野寺孫三郎に命じて中根与衛門に佐竹家の恭順と軍資金三千両を差し出すよう交渉させました。
しかし、与衛門は小田氏と関係が深く、小川城の城主が小田氏の家臣である薗田氏が守備していた事から野寺氏からの要請を断りました。
交渉が拒絶された事を受け、佐竹軍は中根長者屋敷に向けて進軍を開始。
領民達は普段から良政を担っていた与衛門を慕って中根長者屋敷に集まり気勢を挙げましたが、与衛門は領民達を負け戦に付き合わせる訳にはいかないとして助力を受けず、僅かな家臣だけで佐竹の大軍と対峙し攻め滅ぼされたと伝えられています。
中根長者屋敷北西に位置する紅田と呼ばれる地名は中根氏の妾の化粧代を賄った水田だった事が由来すると云われています。
中根長者屋敷は天保2年に北陸地方からの移住者の要請で、釋真誠が開山した浄土真宗本願寺派の往西寺境内一帯とされ、往時は土蔵8棟、板倉3棟、金蔵1棟等が建ち並んでいたとされます。
現在も境内の南西と北西側には幅4m、深さ0.5〜1m程の空堀や土塁等の遺構が残されています。
中根長者屋敷の跡地は貴重な事からかすみがうら市指定史跡に指定されています。
茨城県:城郭・再生リスト
|