・駒城は南北朝時代に中御門少将藤原実寛が築いたとも、在郷武士の居館を接収し実寛の居館にしたとも云われています。
中御門少将藤原実寛がどの様な人物かは判りませんが、中御門家は藤原北家勧修寺流の公家で、勧修寺資経の子供である経俊の四男経継が鎌倉時代後期に住居に因み「中御門」を掲げたのが始まりとされます。
同族と思われる吉田宗房は南朝方として行動していた為が、実寛も南朝方に加担し、常陸国に下向すると共に駒城を築き、又は整備して常陸南朝方の拠点の一つになったと思われます。
延元3年/暦応元年に南朝方の有力武将北畠親房が常陸国に下向し、小田治久の本城である小田城に入っています。
当時の常陸国の南朝方の勢力は駒城の藤原実寛の他、関城の関宗祐、大宝城(大宝八幡宮)の下妻政泰等で、北朝方の諸将と激しく対立しました。
延元4年/暦応2年、北朝方の有力武将である高師冬が駒城に侵攻、それに対し城兵は士気が高く、何度も猛攻を耐え忍んでいました。
駒城が余りにも堅城だった事から北朝方は鎌倉の鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で何回も戦勝祈願が行われたとされます。
延元5年/暦応3年1月には小田城から春日中将顕国、関城から関宗祐が援軍に駆け付け駒城の増強が図られています。
同年の5月27日、高師冬軍は夜陰に乗じて駒城を急襲、驚いた多くの城兵は大きく同様し落城、実寛は捕縛されたとされます。
しかし、体制を整えた残存兵士達の奮戦により駒城を奪い返すと、高師冬は瓜連城まで撤退しています。
その後、駒城がどうなったのかは判りませんが、興国2年/暦応4年、高師冬は大軍で小田城に侵攻しこれを攻略、北畠親房は関城に遷り、当城の記載が無い事から既に落城していたと推定されています。
駒城は東西約120m、南北約180mの単郭の平城で、周囲を土塁と堀で囲っていたものの、堅城とは言い難く、一帯が湿地帯のような攻めづらい地形だったのかも知れません。
現在も北側の東西方向に延びる土塁と堀の一部が残され、貴重な事から茨城県指定史跡に指定されています。
又、駒城の跡地から少し離れた南東方向に土塁状の土塁があり、当城との関係性は判りませんが「駒の墓」が建立されています。
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