・堀之内大台城は常陸国を統一した佐竹義宣により文禄4年頃から築城が開始され慶長元年頃に完成した城郭です。
以前の当地方の中心的な城郭は島崎城で、その城主である島崎氏が長く当地を支配していました。
島崎氏は常陸大掾氏の一族である行方宗幹の次男高幹が常陸国行方郡牛堀町島崎に配され、地名に因み「島崎」姓を掲げたのが始まりとされます。
島崎氏は戦国時代に鹿島郡や行方郡に版図を広げましたが、天正18年に発生した小田原の役で豊臣方に参陣しませんでした。
一方、豊臣秀吉から信任を得て、常陸国支配を事実上認められた佐竹義重・義宣父子は常陸国統一を図る為、北条方や参陣を怠った諸将(南方三十三館主)を佐竹家の本拠地だった常陸太田城に招き、謀殺、主を失った南方三十三館は大きく混乱し、その間隙を着いた佐竹方は数多くの城館を各個撃破し常陸国統一を成しています。
島崎城の城主島崎安定も同様に謀殺され、島崎城も落城、一族は離反し家臣の多くは島崎や上戸、潮来、延方等に土着し豪農になったとされます。
佐竹義宣は、島崎城を利用する事なく佐竹家の権威を示すような大城郭である堀之内大台城が完成すると廃城とし、家臣である小貫頼久が配されています。
小貫家は古くから佐竹氏に従い、頼久は佐竹義重の重臣として重用され、特に外交交渉に重きを成し、越後上杉家や甲斐武田家との関係修復に尽力しています。
頼久が当地に入ると、島崎家の遺臣や周辺の土豪を組み込む一方、堀之内大台城の築城や城下町の整備を行い、さらに文禄の役では朝鮮半島に渡海し、佐竹軍の指揮の一端を担っています。
頼久は文禄4年の知行割替で、和田昭為、人見藤道と共に三奉行に選任され佐竹家中でさらに重きを成しています。
しかし、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を保持、結果的に軍令違反と豊臣恩顧の大大名で、江戸に近すぎる事等が理由で、久保田藩21万石に減封となり、頼久もこれに従い当地を離れています。
捨て置かれた堀之内大台城は島崎氏を慕っていた遺臣や領内達が徹底的に破壊したと伝えられています。
堀之内大台城は連郭式の城郭で南から北西に向かって一郭、二郭、三郭が連なり、さらにその外側には西出城と北出城が配されていました。
一郭には京都の文化を模ったと推定される枯山水の庭園と、それを取り囲む主殿の基礎石等が発見され、中世島崎家の文化を一蹴し新たな権威を誇示する目的があったと思われます。
現在は土砂の採掘や牛堀中学校が建てられた際、城粋の粗全域が大きく削られ開発された事から主要部の遺構は完全に消滅しており、唯一総堀付近に往時の名残が感じられます。
又、逆井城には発掘調査の結果を反映させた主殿と枯山水庭園が復元されています。
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