・宍戸城は建仁3年に常陸国宍戸荘の地頭職となった宍戸家政が設けた居館が原型とされます。
宍戸家政は宇都宮家の庶流である八田知家の四男で、八田家領の内常陸小鶴荘、安芸高田郡内、備中深瀬等を相続し、常陸小鶴荘内の宍戸を本拠地にした事から「宍戸」姓を掲げました。
八田家の嫡流は「小田」姓を掲げ、常陸国守護職を歴任する家柄でしたが、当主が幼少の時は代わって宍戸氏が守護職を担っていた事から一族の中でも重要な地位だった事が窺えます。
鎌倉時代末期、当時の城主である宍戸四郎安芸守朝里は新田義貞に従い鎌倉幕府の討幕に協力、さらに足利尊氏に従い、特に六波羅探題攻めで大功があり安芸国甲立荘が恩賞として与えられ、朝里は安芸に遷り住んでいます。
朝里が死去すると、嫡男である宍戸氏朝が家督を継ぎ、次男の基家が安芸宍戸家を興しています。
常陸宍戸氏は引き続き本家筋の小田氏に従っていましたが、戦国時代に小田氏は台頭してきた佐竹氏に敗れ衰退した為、その後は佐竹氏に従っています。
宍戸義綱の代には筑波四十八館の旗頭となり、6万7千石を領しましたが、豊臣政権下では独立した大名では無く、佐竹氏の与力大名で組み込まれた為、同じく佐竹氏に不満を持っていた江戸氏との関係を深めました。
その為、佐竹義宣の江戸氏攻めに反対の立場を採った為、排斥され親佐竹派の宍戸義利が名跡を継いでいます。
ただし、石高は6千7百石に減じられ海老ヶ城に遷されています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで、佐竹氏は東西中立を選択した事から久保田藩に移封になりましたが、宍戸義長は久保田藩には随行せず帰農しています。
代わって宍戸には秋田実季が5万石で入封し宍戸藩を立藩、宍戸城は本格的な近代城郭へと改変され城下町も町割りされています。
宍戸城は本丸を中心に北側に北之丸、南、西、北側の三方を侍屋敷で囲い、東側は広大な池を天然の堀に見立ていました。
しかし、正保2年に秋田俊季が三春藩に移封になった為、宍戸藩は廃藩、宍戸城も廃城となり天領に組み込まれています。
天和2年に松平頼雄が1万石で入封すると再び宍戸藩が再立藩。ただし、宍戸松平家は水戸徳川家の分家筋で定府大名、城主格ではなく宍戸藩も水戸藩の支藩だった為、宍戸城跡地の一画に陣屋を構えるに留まりました。
現在は土塁の一部が残る程度で、殆どが市街地に没しています。唯一の遺構である陣屋門は貴重な事から茨城県指定文化財に指定され、土塁は笠間市指定史跡に指定されています。
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