・真壁城が何時頃築かれたのかは判りませんが、平安時代末期頃に真壁六郎長幹が真壁郡に入部した際に築かれたとも云われています。
真壁長幹は多気直幹の四男として生まれ、承安2年に常陸国真壁郡真壁荘に配され、地名に因み「真壁」姓を掲げたとされます。
長幹は積極的に源頼朝に協力しなかった事から真壁荘の北半分は関東御領、南半分は常陸国衙領となり、真壁氏は制約付きの地頭に留まっています。
その後は文治5年に発生した奥州合戦に参陣し、建久元年の頼朝上洛の際には供奉する等地位が確立しています。
真壁城の記録的初見は興国2年12月で、南朝方の有力武将だった北畠親房の「御方城々」の中に真壁城が見え、真壁氏が南朝方に属していた事が窺えます。
真壁秀幹は室町幕府4代将軍足利義持に従い、応永30年には真壁郡の知行が安堵されました。
同年、秀幹は隣接する小栗満重と共に足利義持の政敵だった鎌倉府の足利持氏領に信仰したものの、持氏勢に敗退し、真壁城、小栗城の両城は落城、真壁領は大きく削減されたと推定されています。
跡継ぎと目された真壁慶幹は降伏後、剃髪して「松永」に改姓し当地を後にしています。
永享8年に秀幹の甥とされる真壁朝幹が復権を果たし旧領回復が成されたものの、永享11年に秀幹の子供とされる真壁氏幹を名乗る人物が突如として出現し、内乱となっています。
この内乱は朝幹が勝利し、名実共に真壁家の名跡を継ぎ本流となっています。
17代真壁久政は近隣で大きな勢力だった小田氏に従っていましたが、小田氏の勢力が減衰すると対立していた結城氏に転じ、手這坂合戦では獅子奮迅の活躍を見せ「鬼真壁」、「夜叉真壁」と呼ばれました。
その後、久政は小田原北条氏に属し、長男に北条氏政の一字を賜り氏幹と名乗らせています。
一方、常陸国で大きな影響力を持った佐竹氏とも好を通じ、次男に佐竹義昭から一字を賜り義幹と名乗らせ、柿岡城に配しています。
18代となった真壁氏幹は早くから佐竹義重に従い、小田原北条氏戦線の最前線を任せられ、真壁・筑波郡4千5百石の知行が安堵されました。
天正18年に発生した小田原の役でも佐竹氏に従い豊臣秀吉に謁見、本領は安堵されたものの完全に佐竹氏の家臣に組み込まれています。
慶長3年に家督を義幹の子供である房幹に継がせた為、真壁氏本流の本城は柿岡城に遷っています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を貫いた為、慶長7年に久保田藩に減封となり真壁氏もこれに従い当地を離れています。
真壁城は事実上廃城になったと思われますが慶長11年に浅野長政が隠居分として真壁郡、筑波郡内5万石が与えられ、真壁城の一画に居館を整備し隠居城としています。
跡を継いだ浅野長重は小田原城の受け取りや大坂の陣の参陣、宇都宮城の守備等の功績を挙げ笠間藩の加増移封を打診されたものの、父親である長政の菩提寺伝正寺があると当地に拘った事から真壁領が飛地として認められています。
その後は真壁城の城外に笠間藩の出張陣屋(真壁陣屋)が設けられています。
真壁城は筑波山、足尾山、加波山から成る常陸三山の西側の尾根の先端部に築かれた平城で、北側の田中川、南側の山口川を天然の外堀に見立ていました。
城域は東西900m、南北700mに及び、茨城県内の平城としては最大級の規模を誇ります。
本丸を中心に二之丸がその外側を囲うように縄張りされ、その東側に中城と外曲輪が配され、西側に城下町が町割りされています。
現存する遺構としては真壁城の城門が楽法寺の黒門、個人宅の表門として移築されています。
真壁城の跡地は現在も堀や土塁の遺構が明瞭に残され貴重な事から国指定史跡に指定されています。
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