【 概 要 】−佐竹家は源頼義の子である源義光の後裔とされる名族で源昌義(佐竹昌義)の代に常陸国久慈郡佐竹郷が与えられた事から地名に因み佐竹氏を称したのが始まりとされ、源氏宗家だけでなく足利家や新田家、武田家などの源氏一族が没落していく中、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代を一定以上の勢力を保ちつつ生き延びた事でも知られています。平安時代後期には常陸国北部7郡を治め関東地方では無視出来ない存在でしたが、平家の一族である大掾氏との姻戚関係を結ぶなど源氏でありながら平家と関係が近く当初は源頼朝と対立し領土の大半を失いました。文治5年(1189)、奥州藤原氏の掃討戦となる「奥州合戦」に従軍した事で復権しますが往時の所領には至らず一地方領主に留まっています。室町時代に入ると同じく源氏の一門だった足利家に従った事で常陸守護職に任ぜられ、関東八屋形に数えられるなど鎌倉府でも大きな影響力を持つようになります。
戦国時代に入ると佐竹義重を輩出、義重は常陸国に割拠する一族から国人領主化した諸氏を次々と支配下させ南奥州や下野国まで進出し、戦国大名としての地位を確立しています。跡を継いだ義宣の代になると奥州の伊達家と小田原北条氏の台頭により一時苦境に立たされますが、天正18年(1590)の小田原の役で逸早く参陣した事で信任を得て常陸54万5千8百石が認められ、全国でも第8位の大身となり居城を太田城(茨城県常陸太田市)から水戸城(茨城県水戸市)に遷しています。秀吉の側近である石田三成とも懇意にした事で豊臣政権の中でも重要視され、慶長5年(1600)の関が原の戦いの際は徳川家からは西軍として見られていました。
実際は東軍に与する事を助言する義重や一族で重臣だった佐竹義久などと三成に恩義を感じる義宣と意見が対立した為、積極的な軍事的な行動が出来ず東西中立を保つに留まりました。しかし、佐竹家は一門や与力大名を含めると事実上100万石以上(石高では80数万石)の実力を持ち、戦闘に参加していないことから無傷兵力が温存され、何よりも江戸に近い事から問題視され明確な理由が無く出羽6郡21万石の移封になりました。上杉景勝との密約が発覚したとも云われますが、実際徳川軍とは戦っておらず、逆に徳川秀忠の上田城攻防戦に少ないながらも援軍を送っています。この事を重視して細川忠興は出羽一国の加増移封を提案した程でしたが、本多正信・正純父子によりその案は却下され西軍の上杉家や毛利家と同様大減封となりました。
常陸時代の菩提寺である正宗寺(常陸太田市)は、暦応4年(1341)佐竹貞義の庶長子月山周枢が正法院の境内に正宗庵を設けたことが始まりとされ、往時は佐竹家の庇護もあり寺領4万石を領し関東十刹の一つにも数えられるなど寺運が隆盛しました。正宗寺境内には苔生した11基の宝篋印塔が存在し佐竹家一族の墓に推定されています。正宗寺のある常陸太田市は佐竹氏の祈願所である佐竹寺(佐竹寺の本堂は国指定重要文化財)や西金砂神社など佐竹氏縁の史跡が点在しています。
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