妙印尼

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概要・歴史・観光・見所
得月院境内正面に設けられた石造寺号標とその奥に見える山門

【 概 要 】−妙印尼は永正11年(1514)、当時の館林城(群馬県館林市)の城主赤井重秀の娘として生まれ由良成繁の正室として由良家に輿入れし由良国繁、渡瀬繁詮、長尾顕長の子供を得ています。当初は輝子と称していましたが天正6年(1578)、成繁が桐生城死去すると出家して妙印尼を名乗りました。天正12年(1584)、北条氏政の画策によりる国繁・顕長兄弟が厩橋城(前橋城:群馬県前橋市)に監禁され由良領明け渡しを要求、桐生城で隠居していた妙印尼ですがその話しを聞くと直ちに本城である金山城(群馬県太田市)に立て籠もり、北条方と対しました。

伝承によると人質の息子達を磔にすると脅されると、自ら甲冑を身に付け長刀で大立ち回りをし、大筒で北条方の本陣目掛けて撃ち放ったとも云われ、真意はともかく由良勢の奮闘により北条方に大打撃を与えました。結果的に金山城と館林城が北条方となり領土の半分は失われましたが2人の命と桐生城(群馬県桐生市)と足利城(群馬県足利市)は安堵されました。天正18年(1590)、小田原の役の際、国繁・顕長兄弟は再び小田原城(神奈川県小田原市)に軟禁され由良家に対し兵300騎の軍役を要請しましたが、妙印尼は要請を拒否し、逆に貞繁(国繁の嫡男)の後見人として一族郎党300騎を引き連れ、北条方の重臣大道寺政繁が守る松井田城(群馬県安中市)に侵攻する豊臣方の前田利家の陣に参陣しました。

その後も豊臣軍に従軍し功を上げ、北条氏滅亡後は豊臣秀吉から妙印尼に感状が送られ、由良家は改易になったものの妙印尼には常陸国牛久領(茨城県牛久市)5千4百石が与えられ、それを国繁を引き継ぐ形で由良家の家名が残されました。その後、妙印尼は牛久城の一角に法名「得月院殿月海妙印大姉」に因んで得月庵と呼ばれる隠居所を設けようやく安心した老後を送りました。文禄3年(1594)死去、享年81歳、隠居所跡には慶長元年(1596)に大拙斎芸が招かれ得月院(牛久市)が創建され妙印尼の菩提寺となりました。得月院の境内には妙印尼の墓碑が残され牛久市指定有形文化財に指定されています。

得月院:写真
得月院山門から見た石畳みに導かれる境内 得月院植栽に囲まれている本堂 得月院本堂とその前に置かれてる石燈篭 得月院境内に生える「榧」



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