松平信一

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概要・歴史・観光・見所
松平信一と縁がある浄真寺:境内正面

【 概 要 】−松平信一は松平利長の長男として生まれ、松平清康(徳川家康の祖父)とは従兄弟の関係で藤井松平家の初代とされています。早くから松平宗家に従い、永禄元年(1558)の品野城(愛知県瀬戸市)攻防戦(信一隊は織田方50の兵の首を挙げた)や、永禄6年(1563)の三河一向一揆掃討戦(一揆勢の銃弾により被弾したが、構わず敵陣に切り込み掃討、この話しを聞いた家康は賞賛しています)、永禄11年(1568)の観音寺城攻防戦(信長から皮羽織とら鉄炮一挺を賜う)などに従軍し大功を挙げています。その後も姉川の戦い、長篠の戦い(武田軍から5本の槍を分捕った)、小牧、長久手の戦いな主要の戦に参戦し天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い下総国布川領5千石が与えられています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東西中立を保ち動向が予測出来ない水戸の佐竹義宣に備え江戸崎に布陣しています。この功により慶長6年(1601)に常陸国土浦領(茨城県土浦市)3万5千石が与えられ土浦藩を立藩、松平信一は初代藩主として土浦城の改修や城下町の整備などを行い、土浦藩の基礎を築き上げます。慶長9年(1604)、養子である信吉(松平忠吉の長男、生母は徳川家康の異父妹である多劫姫の為、家康から見ると甥にあたる)に家督を譲り隠居、信吉は元和3年(1617)に高崎城(群馬県高崎市)、元和5年(1619)には篠山城(兵庫県篠山市)に移封され松平信一も随行し、寛永元年(1624)篠山城内で死去しています。享年86歳、戒名「浄真院弁誉道雄専水大居士」。

浄真寺(土浦市)は松平信一が土浦入封した際、真誉一諸上人を招いて中興した寺院で、寺号の「光照山浄真寺」は自らの戒名と信吉の戒名「光照院殿雲誉団惣沢大禅定門」に因んだもので、当初は藤井松平家の菩提寺として想定されていたと思われます(両名は移封先の篠山で没し、新たに菩提寺として京都に創建された称念寺に葬られました)。案内板など無い為不詳ですが、浄真寺参道左側には徳川家の御宝塔と略同型の石造物建立され葵の紋が掲げられている事から藤井松平家関係者の供養塔と思われます。

土浦城土浦城は平安時代後期の天慶年間(983〜947)に平将門が砦を設けたとの伝承があり、真偽の程は判らないものの、古くから当地域の中心的な存在だった事が窺えます。中世は領主である織田氏の有力家臣が土浦城の城主や城代を歴任し、戦国時代に佐竹氏により本城である小田城が接収されると、小田氏は土浦城を新たな拠点としました。安土桃山時代には、結城秀康の持城になりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の田戦いの功により秀康が北の庄藩(福井県福井市※後の福井藩)に移封となり、慶長6年(1601)に松平信一が土浦城に入りました。信一は土浦城の近代城郭に改変する為に大改修と拡張を行い、平面的には亀が泳いでいるような複雑な縄張りで、方向によっては五重の水堀で囲われ、総堀からの出入口は馬出が設けられていました。信一と信吉の2代で土浦城の基本部分が竣工し、その後の藩主は櫓や城門の造営程度に留まっています。

浄真寺:写真
松平信一と縁がある浄真寺:本堂正面と植栽 松平信一と縁がある浄真寺:本堂向拝と寺紋である三つ葉葵 松平信一と縁がある浄真寺:藤井松平信一供養塔 松平信一と縁がある浄真寺:鎮守社の福寿弁財天社と稲荷社
土浦城:写真
松平信一と縁がある土浦城(亀城)の城内に移築された旧前川門 松平信一と縁がある土浦城(亀城)の本丸、現在、御殿はありません 松平信一と縁がある土浦城(亀城)東櫓は復元されたものです 松平信一と縁がある土浦城(亀城)二の丸



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