小田孝朝

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概要・歴史・観光・見所
小田孝朝(小田城)

【 概 要 】−小田孝朝は延元2年/建武4年(1337)に小田家8代当主小田治久の子供として生まれました。正平7年/文和元年(1352)に治久が死去すると家督を継ぎ小田城の城主となっています。正平9年/文和3年(1354)には室町幕府初代将軍足利尊氏の命で各地に従軍し功を挙げ常陸国信太荘・田中荘を与えられています。康暦2年/天授6年(1380)に小山義政の乱が発生すると鎌倉府管国の関東8ヶ国に小山義政討伐の軍勢督促が発せられ、孝朝もそれに従い出陣し功を挙げています。しかし、殆ど恩賞が出なかったようで、不信感から鎌倉府とはかなりの溝が出来たようです。

そのような中、小山義政の遺児である小山若犬丸が至徳3年(1386)に挙兵、所謂「小山若犬丸の乱」が発生し小山家の居城である祇園城(栃木県小山市)に立て籠もり反旗を翻しています。その後、祇園城はあえなく落城し若犬丸は逃亡、その際、小田孝朝が居城である小田城(茨城県つくば市)に匿ったとされます。至徳4年(1387)、この行為が咎められ孝朝は鎌倉に参仕している最中に幽閉、城主不在の小田城には上杉朝宗が侵攻し支城である男体城と共に落城しています。孝朝は2代将軍足利義満の計らいにより命は助かったものの所領の殆どは取り上げられ、以後は文化人(和歌が「新千載和歌集」、「新拾遺和歌集」に採録)や武芸者(小田流剣法創始者)として活動しています。応永21年(1414)死去、享年78歳。

小田孝朝は社寺の保護も行い、応永5年(1398)には孝朝が開基となり常福寺五世弁誉上人を招いて解脱寺(茨城県つくば市小田)を創建、延文6年(1361)には龍勝寺(茨城県つくば市小田)に梵鐘を寄進、延享年間(1429〜1441年)に田中日枝神社(茨城県つくば市田中)の社殿を造営(孝朝は応永21年:1414年に死没している事から年代が微妙に異なります)、応安7年(1374)には小田城の守護神として大聖寺(土浦市)、法泉寺(土浦市)、普門寺(つくば市)、南円寺(かすみがうら市)の4ヵ寺を「小田城四方護寺(常陸四箇寺・小田四箇寺)」に定め篤く庇護しています。大聖寺には古文書・小田孝朝下文(土浦市指定文化財)を所有、普門寺境内には孝朝の墓碑が建立されています。

小田城:写真
小田城:五輪塔右側の空堀 小田城:櫓台の高低差と空堀 小田城:本丸土塁と空堀 小田城:空堀
大聖寺:写真
大聖寺境内にある土浦市指定名木の笠松 大聖寺石段から見上げた本堂正面 大聖寺の境内にある仁阿殿 大聖寺の境内にある護摩堂
法泉寺:写真
法泉寺:書院? 法泉寺:植栽越に見える本堂 法泉寺:参道石畳みから見る本堂正面 法泉寺:弘法大師修行の像
普門寺:写真
普門寺:境内に設けられた黒門 普門寺:植栽越に見える客殿 普門寺:参道石畳みから見た本堂 普門寺:境内に作庭された庭園の池



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