【 概 要 】−水谷家は藤原秀郷の後裔とされる氏族で近江犬上郡水谷郷、又は陸奥国岩城郡水谷を領地として与えられ地名から水谷氏を称したとされます。その後、陸奥国行方郡猿田七郷を与えられ結城氏の家臣として四天王の1人に数えられるまでになりました。永享10年(1438)の「永享の乱」や嘉吉元年(1441)の「結城合戦」、応仁の乱後に発生した諸戦にも従軍し戦功を挙げ僅かながらも領土を広げ、文明10年(1478)に水谷勝氏が下館城(筑西市)を築いて下館に進出しました。戦国時代に入ると水谷正村が台頭し宇都宮氏や益子氏など数多くの戦で勝利を収め国人領主としての地位を確立しました。
正村は永禄12年(1569)に弟である勝俊に家督を譲り出家して蟠龍斎に改称、天正18年(1590)の小田原の役では豊臣方に与した事で3万2千石が安堵され結城家からも独立を果しています。跡を継いだ勝俊は慶長5年(1600)の関が原の戦いで東軍に与し、その功により4万7千石で下館藩を立藩し、下館城の拡張や城下町の整備など藩政の充実に尽力しています。2代藩主となった勝隆も父親の偉業を引き継ぎ検地の実施などを行いましたが寛永16年(1639)に備中国成羽藩に移封となり下館においての水谷家の支配は終焉しました。
菩提寺となる定林寺(筑西市)は文明13年(1481)に下館城を築いた水谷勝氏が良室榮欣和尚(結城乗国寺5世住職)を招いて菩提寺として再興させた曹洞宗の寺院で、勝氏の法名「定林寺殿玉叟了圓大居士」に因んで「玉叟山定林寺」と号しました。勝隆が備中成羽藩、さらには備中松山藩に移封するも、その都度城下には玉叟山定林寺が創建され水谷家の菩提寺であり続けました。下館に残った定林寺も下館藩主や幕府の庇護により存続し境内には歴代水谷当主の墓域が残され筑西市指定史跡に指定されています。
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