鮭延秀綱

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概要・歴史・観光・見所
鮭延寺:境内正面に設けられた石柱山門

【 概 要 】−鮭延氏は近江源氏佐々木氏の一族の後裔で室町時代に出羽小野寺氏の客将として出羽に降り、最上郡鮭延の地を領した事から鮭延氏を称するようになりました。鮭延秀綱の代には最上家の北進により小野寺領に度々侵攻され天正9年(1581)には鮭延城(山形県真室川町)が落城、この時以降秀綱は最上家に従ったと思われます。最上家に転じて後は対小野寺家との最前線に立ち、最上郡を掌握、小野寺領深く雄勝郡(秋田県)まで侵攻を繰り替えました。

慶長5年(1600)の関が原の戦いでは、東軍に与した最上家は西軍に与した上杉軍により駆逐され本城である山形城(山形県山形市)まで数キロ地点まで侵攻され最終防衛ラインともいえる長谷堂城(山形県山形市)が決戦場となりました。鮭延秀綱も数千の兵を率い救援に向かい激戦に参陣し大いに暴れまくったとされます。軍記物なので資料的価値は低いものの「奥羽永慶軍記」によると鮭延秀綱の活躍は目覚しく武田信玄や上杉謙信でもここまでの働きは出来ず、後日、敵将である上杉家執政の直江兼続も褒美を送ったと記載されています。真意の程は不詳ですが大功があった事は確かなようで戦後は真室城1万1千5百石が与えられ最上家中でも上位となり重臣として大きな影響力を持つようになります。

元和3年(1617)、2代山形藩主最上家親が37歳の若さで急死(暗殺説もある)すると嫡男である義俊が3代藩主を就任しましたが、義俊は幼少だった為、家臣団をまとめる事が出来ず秀綱などの家臣の一部が山野辺義忠(初代藩主最上義光の4男)の擁立を画策しました。義俊はこの行動を謀反と捉え幕府に訴えた為、画策が露見し山形藩57万石の改易に繋がりました。秀綱も当然連座し佐倉藩(千葉県佐倉市)の藩主土井利勝に預かりの身となり、その後許されると、5千石で家臣として迎え入れられました。

鮭延秀綱には10数人の忠臣が従っていた事から5千石を彼らに分け与えた結果、全て土井家の家臣となり、無石となった秀綱は彼らの家に転々として余生を暮したとされます。寛永10年(1633)に土井家が古河藩に移封になると随行し正保3年(1646)に死去、旧臣達は秀綱の菩提を弔う為、2代藩主土井利隆に懇願し慶安元年(1648)、勅特賜鉄面禅師(永平寺24世)を招いて鮭延寺(古河市)を創建しました。鮭延寺の境内には秀綱の墓碑である五輪塔が建立されています。

鮭延寺:写真
鮭延寺:境内から見た本堂正面 鮭延寺:植栽越に見える本堂 鮭延寺:「熊沢番山之墓」石標 鮭延寺:顕彰碑



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