【 概 要 】−土井利隆は元和5年(1619)、古河藩初代藩主土井利勝と栄福院(駒井氏)との子供として生まれました。寛永12年(1638)に小姓組番頭、若年寄に昇進しましたが、寛永15年(1638)に罷免されています(酒井忠勝・土井利勝も老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられている事から、政変があったとも云われています)。寛永21年(1644)に利勝が死去すると土井家の家督を継ぎ、古河藩2代藩主に就任しています。その際、古河城16万石から弟である土井利長1万石、土井利房に1万石、土井利直に5千石が分知され13万5千石となっています。
土井利隆は正保3年(1646)に利勝の追善供養の為、土井家の菩提寺である正定寺に鐘楼(梵鐘付)を造営しています。同年、土井家に預けられていた鮭延秀綱(山形藩最上家の御家騒動により連座)が死去すると秀綱の家臣達が菩提寺を利隆に懇願、意気に感じた利隆は慶安元年(1648)に勅特賜鉄面禅師(永平寺24世)を招いて鮭延寺を創建し残された家臣達を直参として迎え入れています。
利隆は政争に敗れ幕政から遠ざけられた事で荒れた生活を送ったようで、それを指摘した古河藩の江戸家老だった大野仁兵衛と対立するようになり慶安4年(1651)に仁兵衛が諫死するという事件が発生しました。事態を重く見た古河藩の上層家臣達は利隆を押込隠居に追い込んだようで、幕府には利隆が病気になったとして、対外的な行事などは弟である土井利直が名代を勤めています。万治元年(1658)、利隆が40歳になると幕府が隠居を認める年齢に達した為、正式に嫡男である土井利重に家督を譲り事なきを得ています。貞享2年(1685)死去、享年67歳、戒名:覚照院殿憲誉直到浄感大居士。
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