【 概 要 】−井上正経は享保10年(1725)、笠間藩主井上正之と稲葉氏の娘との子供として生まれました。正之は元文2年(1737)前年から大病を患ったものの幕府から無理やり働かされた事で悪化し病死、それに伴い正経が家督を継ぎ笠間藩の藩主に就任しました。正経は当時12歳と幼少で将軍に御目見していなかった事から断絶してもおかしくない状況でしたが、幕府も後ろめたさを感じたのかすぐさま御目見が行われ正経の井上家相続が認められました。
笠間城の城下に鎮座している笠間稲荷神社には奇妙な伝承が伝えられています。それによると寛保3年(1743)、城主井上正賢の霊夢に稲荷神の化身と思われる老人が出現し、自分は高橋町に鎮座している稲荷神社に仕える者だ、社は狭く老朽化し、信者も皆憂いていると語り姿を消しました。翌朝、眼が覚めると枕元には胡桃の実があった事から神意と悟り、早速調べてみると朽ちかけそうな社がありました。正賢は社殿を再建する共に祭器を寄進、祭祀を復活させ、例祭は盛大に祝いました。すると、数年後、江戸藩邸に居た正賢に駕籠一杯に胡桃を詰めた束帯の官人が訪ねて来て、私は胡桃下稲荷門三郎と申す者で、あなた様のお陰で境内も広くなり祭祀が行われる事で霊気に満ちております。これまで通りに祭っていただければ領内の安全に勤めます。と申し姿を消しました。正賢は正に稲荷神の御加護を得たと悟り益々信仰するようになったと伝えられています。
笠間稲荷神社の由緒に登場している井上正賢は笠間藩主(笠間城主)に存在せず、在位年から推察すると井上正経に当たります。読み方から推察すると、正経の3男正方とも推察されますが寛保3年(1743)には生まれておらず、家督を継いだ城主になったという記録も無い、三男坊では社殿の再建などは出来ようはずもありません。一方、正経は笠間稲荷神社の御利益なのかは判りませんが宝暦2年(1752)には奏者番、宝暦6年(1756)には大坂城代、宝暦8年(1758)には京都所司代、侍従、宝暦2年(1760)には老中と出世を重ねました。明和3年(1766)死去。
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