笠間稲荷神社概要: 笠間稲荷神社の創建年は明確ではありませんが、社伝によると白雉2年(651)に胡桃の大木の下に祠を建立したのが始まりとされ、胡桃下稲荷の別称がありました。又、和銅6年 (713)に編纂された「常陸国風土記」によると笠間村で宇迦之御魂神(稲荷神)が信仰されていた事が記載されている事から笠間稲荷神社が既に存在していたと考える人も多いようです。一方、奈良時代から平安時代にかけて成立した歴史書である六国史や延長5年(927)に編纂され全国の著名な神社を列記した延喜式神名帳では笠間稲荷神社と思われる神社が存在しない事からも、当時は存在しないか、又は、極めて小規模な神社に留まっていたと思われます。
因みに、現在、笠間城の天守閣跡に鎮座する佐志能神社は式内社の論社で別当寺である観世音寺の創建(伝)は白雉3年(652)とある為、当時は佐志能神社が信仰の中心だった可能性が高く、笠間稲荷神社は白雉3年を意識して、一年早く創建年を設定し白雉2年にしたのかも知れません(あくまで私論です)。
鎌倉時代成立前後には当地方にも稲荷信仰が浸透していたようで、元久年間(1204〜1205年)に笠間時朝が佐白山に笠間城を築く際には、山頂に現在の城山稲荷神社が鎮座し、築城に伴い麓に遷座したとされます。しかし、創建から近世に至るまでの記録が全く無い為、実際は何時頃に創建しどの様な歴史を刻んでいたのは判らない謎の神社です。中世に入ると、長く当地を支配した笠間城の城主笠間氏により庇護されたと推定されますが文献上の記録が無く不詳。
笠間稲荷神社の記録が明確になるのは江戸時代からで、笠間藩主松平康重が慶長13年(1608)に丹波国篠山藩(現在の兵庫県篠山市北新町城内)5万石に加増移封になった際、領内に笠間稲荷神社の分霊を勧請し王地山稲荷神社創建した事から篤く崇敬していた事が窺えます。慶長17年(1612)に笠間藩に入封した戸田松平康長も、元和2年(1616)に上野高崎藩(群馬県高崎市・本城:高崎城)、元和3年(1617)に信濃松本藩(長野県松本市・本城:松本城)に移封になった際にも笠間稲荷神社の分霊が勧請され松本城内に稲荷神社が創建されています。
代わって入封した永井直勝も元和8年(1622)に古河藩(茨城県古河市・本城:古河城)に移封した際に分霊が勧請され古河にも稲荷神社が創建されています。浅野家時代には城代家老大石家が崇敬し、1645年に赤穂藩に移封になった際に屋敷に大石稲荷神社を設けています。
元禄15年(1702)に入封した井上家も崇敬し、特に寛保3年(1743)には藩主井上正賢が篤く帰依し境内を拡張し社殿を再建(笠間藩主には井上正賢が存在しなく、在位年から察すると井上正経の事と思われます。一方、正賢の3男正方の異表示という説もありますが、3男が社殿の再建出来る程の財力があったとは考え難く、誕生年からも合致しません)、さらに、一族である門三郎が笠間稲荷神社の信仰から多くの人々に功徳を施した事で「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになりました。
延享4年(1747)に井上正経が陸奥磐城平藩(福島県いわき市)に移封になり、延岡藩(福岡県延岡市)から牧野貞通が入封すると、貞通も笠間稲荷神社に対し、先例に従い社領を安堵し多くの社宝を寄進しています。特に牧野貞長の尽力により正一位稲荷大明神の神位を賜り、江戸時代末期の牧野貞明が造営した本殿は秀逸な建築である事から国指定重要文化財に指定されています(牧野家の江戸下屋敷にも創建され、現在では笠間稲荷神社東京別社となっています)。
笠間稲荷神社は古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色は排され、村社に列し戦後は別表神社となっています。ただし、廃藩置県により笠間藩が廃藩となり庇護者を失った事から一時荒廃、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)出身の現在の宮司家が再興し現在に至っています。常陸七福神霊場:大黒天。祭神:宇迦之御魂命。
笠間稲荷神社は京都の伏見稲荷と九州の祐徳稲荷と共に日本三大稲荷の1つとして信仰を広め初詣参拝者数は80万人以上とされ茨城県内最多を誇り、年間でも350万人の参拝客が訪れるそうです。又、茨城県十二社(常盤神社・鹿島神宮・大杉神社・常陸國総社宮・茨城県護国神社・水戸八幡宮・水戸東照宮・吉田神社・大洗磯前神社・酒列磯前神社・筑波山神社・笠間稲荷神社)に数えられています。総門は江戸時代後期の建物で、入母屋、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門、「豊穣」や「豊楽」の扁額が掲げられ、御幣が安置されています。
現在の笠間稲荷神社本殿は江戸時代末期安政・万延年間(1854〜1861年)に牧野貞明(貞直)が武運長久御領内泰平を祈念して再建したもので、拝殿部が外陣、その内部に旧本殿が取り込まれる形式で内陣を構成しています。拝殿部は四方入母屋造、銅板葺、桁行3間(7.58m)、梁間2間(4.62m)、正面1間軒唐破風向拝付、向拝や壁面、柱など随所に精緻な彫刻、旧本殿部は流造、本瓦型銅板葺き、桁行5.34m、梁間5.34m。大工棟梁は真壁郡大曽根村出身の柴山播磨正源始治と笠間高橋町出身の海老沢太郎兵衛、彫刻師は後藤縫之助(三頭八方睨みの龍、牡丹唐獅子等を担当)、弥勒寺音八、諸貫萬五郎(音八と共に蘭亭曲水の図等を担当)。笠間稲荷神社本殿(附:軒札1枚)は江戸時代末期の神社本殿建築の遺構で意匠にも大変優れている事から昭和63年(1988)に国指定重要文化財に指定されています。
笠間稲荷神社境内にある藤樹2株は推定樹齢400年、根回り3.55m、枝張り15.02mの古木で昭和42年(1967)に茨城県指定天然記念物に指定されています。総門は文化10年(1814)に笠間稲荷神社の神門として建てられたもので、入母屋、桟瓦葺、三間一戸、八脚単層門、新たに楼門が建てられた際現在地に移築され総門と呼ばれるようになりました。笠間稲荷神社拝殿は昭和35年(1960)に再建されたもので鉄筋コンクリ―造平屋建、入母屋(正面千鳥破風)、銅板葺、平入、正面3間軒唐破風向拝付。楼門(萬世泰平門:随神門)は昭和36年(1961)に造営されたもので、鉄筋コンクリート造、入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門、内部には随神が安置されています。
笠間稲荷神社の文化財
・ 本殿-文久元年-四方入母屋造、銅瓦葺-唐破風向拝-国指定重要文化財
・ 八重のフジ-樹種:ヤエフジ、根回り3.55m、枝張15.02m-茨城県指定文化財
・ 唐本一切経(3巻)-1132年(中国)-縦30cm、横11cm-茨城県指定文化財
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