水戸市: 吉田神社

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概要・歴史・観光・見所

吉田神社(水戸市)概要: 吉田神社は茨城県水戸市宮内町に鎮座している神社です。吉田神社の創建は5世紀末頃に日本武尊の分霊を勧請したのが始まりと伝わる古社です(吉田神社に伝わる古文書では正安4年:1301年で鎮座800年余と記載されています。

又、奈良時代初期に編纂された「常陸国風土記」には日本武尊の事を倭武天皇と表現、しかし、日本武尊は天皇となっていない事から別人説がり、これが正しければ常陸国には日本武尊は来訪していない事となり、平安時代以降に創作された可能性があります)。

吉田神社の境内は日本武尊が東夷東征の際、この地に陣を張り御旗を立てた場所とされ"朝日三角山"と称される聖地だったと云われています。吉田神社は格式も高く承和13年(846)に従五位下、天安元年(857)に従四位下、元慶2年(878)に正四位下、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳には名神大社と記載、弘長元年(1261)には正一位に列し、建久4年(1193)には朝廷より社殿の改修が行われています。

吉田神社は中世、常陸国三宮として広大な社領を領し一大勢力を築くまでになりましたがその後次第に衰退しました。しかし、江戸時代に入り幕府や水戸藩(藩庁:水戸城)から庇護され再び社運が隆盛し、慶安元年(1648)には三代将軍徳川家光より朱印状が送られ、水戸藩2代藩主徳川光圀によって堂宇の再建が行われ境内が整備されました。

斉昭の代になると改めて吉田神社には社領100石が安堵され領内総鎮守となりました。吉田神社は中世以降神仏習合し別当寺院として薬王院が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により薬王院から分離し、明治6年(1873)に県社に列しています。

現在の吉田神社社殿は昭和20年(1945)の水戸大空襲の戦火で焼失後の昭和23年(1948)に再建されたもので神社山門(随神門)は切妻、銅板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り、左右には随身像が安置されています。拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社、銅板葺、神明造り、外壁は真壁造り板張り。祭神:日本武尊。

【 吉田神社と日本武尊 】-吉田神社は日本武尊の凱旋経路の伝承が残されています。それによると日本武尊が東国平定を完遂し凱旋国国する際、藤蔓で作った船で当地まで及び、地名の「藤柄」はその船を繋いだ場所が由来するそうです。上陸後は見晴らしの良い現在の吉田神社の境内地である朝日山(三角山)台地に登り、そこで兵を休ませたとされます。

その際、日本武尊が御旗を立て朝日に輝かせた場所は「御祭神御遺跡」として神聖視され、現在でも周囲に注連縄を張り、例祭の際には御神輿がこの旧跡を3回廻ってから町内を巡行するのが習わしとなっているそうです。同様の由来は江戸時代後期の寛政11年(1799)に青山延彝(水戸藩士、儒学者、江戸彰考館総裁、弘道館初代教授頭取)が編纂した「常陸二十八社考」にも記されており、少なくとも江戸時代には伝承が成立していた事が窺えます。

一方、奈良時代に編纂された「常陸風土記」では日本武尊と思われる御人を「倭武天皇」とし、主に地名の由来となる事跡を行っています。日本武尊は天皇になった経歴が無い為、単純に同一人物と決め付ける訳にもいかず、鎮座地である那賀郡の条に「倭武天皇」の記述が無いので積極的な繋がりは薄かったと推察されますが、類似性を見出した識者が吉田神社の信仰を広げる為に上記のような伝承を流布したのかも知れません。私論的には、同じ吉田大地に築造されてる吉田古墳(国指定史跡)に注視しする必要性があると思います。

吉田古墳は7世紀頃に築造されたと推定される全国で唯一、石室に線刻壁画(釵・刀子・鉾等)を有する多角形墳(八角墳)で、対辺間26mと小規模ですが、副葬品や線刻壁画など文化的認識が高い豪族が存在していた事が窺えます。境内からの距離や、時代背景から察するととても無視出来る存在では無く、線刻壁画が九州北部に多く見られる事から、九州から船で当地に移動してきたとすると、上記の伝説とも符合するものもあります。あくまで推測の域を出ませんが、日本武尊の伝説を持ち出すよりは可能性が高いように思います。

何れにしても、吉田神社は平安時代以降は格式の高い神社として中央からも認識され、平安時代に制作された歴史書である「続日本後紀」や「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」、「延喜式神名帳」などにも高い神階を賜った事が記載され鹿島神宮、静神社に次ぐ常陸国三宮として篤く信仰されるようになりました。神仏習合が強まると、別当寺院である薬王院の影響を受け、仏教色の方が先に立ち吉田神社自身の信仰は薄まったようですが、江戸時代初期に徳川光圀(水戸光圀)が水戸藩(藩庁:水戸城)主になると、領内の格式のある神社の再認識が行われ、篤く遇されるようになり社殿の造営などが行われました。江戸時代末期の天保15年(1844)には徳川斉昭から水戸藩総鎮守に定められ「大日本史」と、社領100石が寄進されました。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-水戸市教育委員会

吉田神社:写真

吉田神社の石鳥居と社号標
境内正面に設けられた石鳥居と社号標
吉田神社の随身門と石灯篭
参道石畳みから見た随身門と石灯篭
吉田神社の随身門(神社山門)から見た境内
随身門(神社山門)から見た境内
吉田神社拝殿正面と菊まつり
拝殿正面と菊まつりの風景
吉田神社の本殿と神門
右斜め前方から見た本殿と中門と透塀


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