筑波山神社

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概要・歴史・観光・見所
筑波山神社(つくば市)概要: 筑波山神社は茨城県つくば市大字筑波1に鎮座している神社です。筑波山山容筑波山神社の創建は不詳ですが鎮座地である筑波山(標高:877m)は関東平野に突出した独立した山容をしていた為、古代から霊山として信仰の対象となり筑波山神社はその延長上に発展したとされます。筑波山神社ではイザナギノミコト・イザナミノミコトが国産みをした際、最初に作った島であるオノゴロ島を筑波山であるとして、祭神の根拠としていますが、一般的にオノゴロ島は近畿地方より西側に多くの候補地があるものの東日本には余り聞いた事がなく、神話が記された奈良時代には権力の中枢が近畿にあり当然と言えば当然かもしれません。上記の伝説から筑波山の2つ頂である男体山(標高:871m)には男体権現(伊弉諾命)、女体山(標高:877m)には女体権現(伊弉冉命)がそれぞれ祀られていたそうです。

崇神天皇の御代(紀元前97年〜紀元前30年)に常陸国が立国し筑波国造に筑波命(物部氏一族)が就任すると筑波山神社の祭祀を司り政教共に筑波命一族が支配する事になります。ただし、崇神天皇も実在したのかも明確ではなく、在位期間も不詳、素直に計算すれば紀元前の人物という事になり、卑弥呼の時代より200年程前になります。一方、実在したと明確な天皇から一定期間(在位期間を10年程度)を割り振ると崇神天皇は4世紀頃に活躍した事になり、こちらの説の方が真実味があります。又、養老年間(717〜723年)に編纂された推定される常陸国風土記によると大化元年(645)の大化の改新の直後に常陸国立国している事から実際に神社として確立したのは、この頃以降の事と思われます。

景行天皇の御代(西暦71〜西暦130年)には日本武尊が東夷東征の帰途の際、筑波山に登山したとされその際、連歌を発した事から連歌発祥の地となっています。その後も、常陸国風土記や万葉集(関係25首)、古今和歌集など記録書や歌集のなかでも度々登場し当時から中央にも広く知られる存在になっていきました。日本後紀によると弘仁14年(823)には従五位下、三代実録によると貞観13年(871)に男体権現を従三位、女体権現を正四位下に列し延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には筑波山神社の前身である男体権現が名神大社、女体権現は式内小社に列していたことが記載され当時から格式の高い神社だった事が窺えます。

延暦元年(782)、徳一大師が筑波山神社の別当寺院となる中禅寺を開山すると神仏混合し、拝殿が設けられた中腹(標高:270m)から山麓にかけて多数の堂宇が建ち並んでいたそうです。歴代領主や為政者から崇敬庇護され建久2年(1191)には源頼朝が家臣達を引き連れ参拝に訪れ社領の寄進が行われ、血族で有力御家人である八田知家を常陸守護に任ぜると、後裔である小田氏(小田城の城主)に至るまで崇敬社として庇護しました。

江戸時代に入ると筑波山は江戸城から見ると北東の方角に当たる為、鬼門鎮護の寺院(神社)として幕府から庇護され徳川家康から寺領(社領)500石の朱印状を賜り、2代秀忠、3代家光と社殿の造営を繰り返し壮大な境内が創出しました。5代綱吉の代にさらに1000石が加増され計1500石の社領となり日光東照宮(栃木県日光市)や伊勢神宮(三重県伊勢市)などに片を並べました。明治時代初頭に発せられた神仏分離令により別当寺院だった中禅寺が廃寺になるなど仏式が廃され、筑波山神社として独立、明治6年(1873)に県社に列し戦後は別表神社に列格しています。現在でも随神門(文化8年:1811年建築、三間一戸、楼門形式、入母屋、銅板葺)や神橋(寛永10年建築、桁行1間、梁間4間、切妻、こけら葺)など神仏混合当時の堂宇が残り雰囲気を伝えています。常陸七福神霊場:恵比寿。祭神:筑波男ノ神(伊弉諾尊)・筑波女ノ神(伊弉冊尊)。

【 筑波山神社と日本武尊 】-筑波山神社が鎮座する筑波山には、日本武尊に関わる話が流布しています。大凡、「景行天皇の御代に日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれている。」という内容のもので、「古記」では無く「古事記」としているものも多く散見しています。しかし、日本武尊が筑波山を登ったとは「古事記」や「日本書紀」、「常陸風土記」には記載されておらず、単なる伝承があたかも記録に残っているかのように流布されているようです。このような話は珍しい事では無く、例えば草津温泉(長野県草津町)では源頼朝が浅間山で巻狩りを行った際に草津温泉を発見した事が「吾妻鏡」に記されていると流布されているますが、そのような事は「吾妻鏡」には記載されていません。名所や神社仏閣などで著名人を利用して格式を挙げる例は多く筑波山神社の伝承も何か同じような印象を受けます。

この伝承は「古事記」や「日本書紀」の両方で、日本武尊(倭武命)が東国平定を完遂し、凱旋帰国した際に酒折宮(山梨県甲府市酒折)で「新冶 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠み、それに対して御火焚の者が「日日並べて 夜には九夜 日には十日」と歌で返した事が記載されている事が元になったものと思われます。この歌はあくまで、「新冶」と「筑波」を通過したという意味で、筑波山を登った訳ではありません。もし、日本武尊が実在し東国の平定を行ったとしたら、多くの兵を引き連れていた事が想定され、その行軍の最中に筑波山に態々登る事は、余りにも軽率すぎてあり得ない行為である事は間違いありません。又、歌の意味も、例えば筑波山の山頂からの景色を褒め称えるなどでは無く、「新治と筑波を過ぎて、どのくらいの夜を過ごしただろうか?」と訳せる為、山頂に登った事を推察する事も出来ません。

全くの私論ですが、筑波山の山容や位置関係から元々筑波山神社には地元神が祭られ、常陸国の中で最もと信仰を集めた神社だった印象を受けます。その後、朝廷に近い一族が常陸国に進出して祖神である鹿島神宮を創建し、鹿島神宮が神階として上位に位置付けられたのではないかと思います。さらに言えば、神階では筑波山神社は鹿島神宮に次ぐ2番手であるはずなのに、常陸国二宮は静神社(茨城県那珂市静)、三宮は吉田神社(茨城県水戸市宮内町)と格付けされ、あたかも筑波山神社を排斥しているかのような現象が起きています。筑波山神社が脚光を浴びるのは江戸時代に入ってからで、徳川家の居城である江戸城の鬼門鎮護として、全国の有力社寺と比べても多大な庇護を受け大きく繁栄します。その後は庶民にも筑波山信仰が広がり、多くの参拝者が筑波山を目指し、境内に通じる街道は賑わったそうです。

筑波山神社の文化財
・ 太刀(銘吉宗・附糸巻太刀拵)−鎌倉時代−国指定重要文化財
・ 春日神社本殿-寛永10年-三間社流造-こけら葺-茨城県指定文化財
・ 日枝神社本殿-寛永10年-三間社流造-こけら葺-茨城県指定文化財
・ 春日・日枝神社両拝殿-寛永10年-桁行5間、入母屋-茨城県指定文化財
・ 厳島神社本殿−寛永10年−春日造−こけら葺−茨城県指定文化財
・ 神橋-寛永10年-桁行1間,梁間4間,切妻,こけら葺-茨城県指定文化財
・ 随神門-文化8年-三間一戸,八脚楼門形式-つくば市指定有形文化財
・ ほしざきゆきのした−つくば市指定天然記念物
・ まるばくす−つくば市指定天然記念物

筑波山神社(随身門・神橋):写真

筑波山神社境内正面に設けられた朱色の巨大な大鳥居
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筑波山神社参道石段先に見える神々しい筑波山 筑波山神社神橋とその上に架かる格式を感じさせる屋根 筑波山神社石段から見上げる随神門(楼門)と玉垣と石垣 筑波山神社参道石段から見上げる拝殿
筑波山神社かなり迫力がある拝殿の正面 筑波山神社拝殿左斜め前方から採った画像 筑波山神社拝殿の向拝唐破風と吊り下げられた鈴 筑波山神社拝殿背後の幣殿


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