金村別雷神社(つくば市)概要: 金村別雷神社は茨城県つくば市上郷に鎮座している神社です。金村別雷神社の創建は平安時代の承平元年(931)、当時の領主豊田氏の霊夢に雷神の化身が立ちその御告げに従い加茂別雷大神(京都府京都市北区上賀茂本山)の分霊を勧請し領内の五穀豊穣を祈願したのが始まりと伝えられています。
康平5年(1062)に行われた前九年合戦の際、当主である平将基が源頼義・義家父子から副将を命じられ奥州に随行、敵陣が阿武隈川の対岸にあり攻めあぐねると、日頃から信仰している別雷大神に必勝を念じました。すると不思議な事に後冷泉天皇から賜った金色の旗から龍が抜け出し対岸までの橋となると味方の兵はその橋を渡り大勝利となりました。以来、金色の旗は当社の社宝となり金村神社とも呼ばれるようになりました。
金村別雷神社の旗には別の伝説があり、後三年合戦の際、源義家に随行した平将基が最上川の増水の為、対岸に布陣した敵に苦戦していると軍旗から2匹の幡竜が飛び出て、見方の兵と共に敵将である清原家衛を討ち取ったとされ、その功により将基には豊田郷が与えられ豊田氏を名乗ったと伝えられています。
何れにしても平将基が豊田氏の祖としている事から承平元年(931)には豊田氏は存在していない事になり平家関係の人物が勧請したのかも知れません(又は別系統の豊田氏が存在し将基がその名跡を継いだのかも知れません)。
その後、領主である豊田家の崇敬社として庇護され社運も隆盛したと思われますが詳細は不詳、天正3年(1575)当時の当主豊田治親が多賀谷氏に内通した家臣飯見大膳に毒殺され豊田氏が滅亡すると金村別雷神社も衰退したと推定されています。
当初は上郷の地に鎮座し金村別雷神社が衰退するとその跡地に小祠が建立され「水の祠」などと呼ばれていましたが江戸時代初期の寛文10年(1670)に天領代官として当地に赴任した曽根五郎左衛門が再興し現在地に遷座すると社運も隆盛し雷神社(別雷皇太神:水戸市)、雷電神社(群馬県板倉町)と共に関東三雷神の一つに数えられなど信仰を広めました。
江戸時代は神仏習合し別当寺院として明光院が祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により明光院が廃寺となり明治6年(1873)に郷社に列しています。
現在の金村別雷神社本殿は宝永5年(1708)に建てられたもので一間社流造、こけら葺、建物全体が精巧な彫刻で施され、屋根妻面には力士像が彫り込まれています。天保2年(1831)には木造平屋建て、入母屋、銅板葺、桁行4間、梁間4間の覆屋が建てられ共に平成3年(1991)に茨城県指定有形文化財に指定されています。
拝殿(木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、千鳥破風、桁行5間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り)、神楽殿(木造平屋建て、入母屋、瓦葺、高欄付き、外壁は真壁造り板張り、正面2方は柱間建具嵌め込み)、回廊(両下造、銅板葺き、外壁は柱のみの吹き放し、高欄付き)は明治12年(1879)に再建されたもので昭和55年(1980)につくば市指定有形文化財に指定されています。
金村別雷神社の文化財
・ 本殿−宝永5年−一間社流造、こけら葺−茨城県指定重要文化財
・ 覆屋−天保2年−入母屋、銅板葺−茨城県指定重要文化財
・ 拝殿−明治12年−入母屋、瓦葺、千鳥破風−つくば市指定有形文化財
・ 神楽殿−明治12年−入母屋、瓦葺−つくば市指定有形文化財
・ 回廊−明治12年−鉄板葺−つくば市指定有形文化財
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