小田城(つくば市)概要: 小田城の築城は文治元年(1185)、鎌倉幕府の有力御家人の八田知家(宇都宮宗綱の4男とも源義朝の落胤とも云われています)が常陸守護に任ぜられ居館として築いたのが始まりとされます。建久4年(1193)に八田時知は多気氏を滅ぼすなど常陸国中部から南部に勢力を広げ領地の地名から小田氏を名乗りました。南北朝時代に入ると7代治久は南朝側に与し延久3年(1338)には北畠親房や春日中将顕国らを小田城に迎えるなど南関東の主要拠点として機能しました。小田城内では親房が"神皇正統記"を書き上げるなど周囲では中心的な役割を果たしていましたが戦局が南方の関城付近に変わり親房も移っています。
9代当主小田孝朝は足利尊氏に従い各地で従軍し功を挙げた事から常陸国信太荘・田中荘を与えられ最大版図を築きましたが、反乱分子である小山若犬丸を小田城に密かに匿った事で、孝朝は鎌倉に参仕している最中に幽閉され、小田城は上杉朝宗に攻められ落城、信太荘・田中荘は取り上げられています。
戦国時代に入ると北条氏や佐竹氏といった大大名や隣接する結城氏、多賀谷氏などに囲まれ常に苦戦を強いられ弘治2年(1556年)の結城政勝が侵攻した海老ヶ島の戦いで小田氏治は敗北し小田城を破棄し、政勝が政治的な理由で自領に引き上げると小田城を奪還しています。翌、弘治3年(1557年)には佐竹義昭との戦いである黒子の戦いでも敗れ土浦城に敗走しましたが永禄2年(1559)には小田家の被官で土浦城の城主菅谷政貞の活躍により小田城を再び奪還しています。
永禄7年(1564)、今度は上杉謙信と対立し山王堂の戦いで敗北、小田城は落城し藤沢城へ敗走しています。その後も永禄8年(1564)に奪還、永禄9年(1565)に落城、永禄11年(1567)に奪還、永禄12年(1569)に落城、元亀3年(1572)に奪還、元亀4年(1573)には1年の間に何度も攻守が入れ替わり概ね佐竹氏支配が確定しました。
佐竹氏は太田資正や梶原政景、小場義宗といった重臣や一族を配し、天正18年(1590)に小田氏の残党が急襲するも何とか持ちこたえました。この行為は小田氏が私闘令違反を犯したと裁かれ、名門小田氏は改易となり事実上没落し佐竹氏支配が確立しています。
しかし、その佐竹氏も慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東西中立を保った為、久保田(秋田県)に移封になり小田城は廃城になりました。現在、城郭の大部分は宅地化と田畑になりましたが、郭の形状や本丸の土塁、堀の一部などの遺構が残され昭和10年(1935)に国指定史跡に指定されています。
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