土浦城(亀城)

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概要・歴史・観光・見所
土浦城(亀城)概要: 土浦城の築城は不詳ですが伝承によると平安時代の天慶年間(938〜947年)、平将門が砦を設けたのが始まりと伝えられています。記録的には永享年間(1429〜1441年)、長く当地域を支配した国人領主小田氏の被官今泉(若泉)三郎によって築かれたとされます。その後、今泉氏は独立したようで永正13年(1516)には小田氏家臣である菅谷勝貞の侵攻により土浦城は落城しています。戦国時代に入ると小田氏の居城である小田城の重要な支城として機能し、小田城が落城すると本拠を土浦城に移し度々攻防戦が繰り広げられています。小田氏は佐竹氏や北条氏などの大大名に囲われ苦戦を強いられ、土浦城は対佐竹氏の拠点の1つとなっていました。天正13年(1583)、当主小田氏治が佐竹氏の支配下に入ると菅谷氏は小田氏を離れ小田原北条家と結び、天正18年(1590)の小田原の役では北条家側で行動し豊臣軍である佐竹氏、徳川氏などに攻められ敗北し事実上没落します(菅谷範政は江戸時代に入り旗本5千石で復権)。

その後、土浦城は結城秀康(徳川家康の2男:結城城の城主)に接収され、慶長6年(1601)に秀康が関ケ原の戦いの功により越前(福井県福井市:北ノ庄城)に移封になると、代わって松平信一が3万5千石で土浦城に入封し土浦藩を立藩、松平氏時代に現在に近い規模まで拡張整備されています。その後は、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平氏と比較的短期間に藩主が入れ替わり、江戸時代中期の貞享4年(1687)に土屋政直が6万5千石(後9万5千石)で藩主になると10代(土屋政直・陳直・篤直・寿直・泰直・英直・寛直・彦直・寅直・挙直)続き明治維新を迎えます。

【 土浦城の縄張り・遺構 】-土浦城は5重の堀と土塁に囲まれた平城で平面の形状から"亀城"の別称があり、本丸や2の丸などの中枢部だけでなく外堀内に城下町が収まっている所謂総構えを持つ広大なものでしたが明治維新後は廃城となり多くの施設建物は解体移築されました。それでも尚多くの施設が残されていましたが明治17年(1884)の火災で本丸御殿が焼失し、被災を受けた東櫓と鐘楼も取り壊しになっています。現存する建物は、太鼓櫓と別称を持つ楼門(表門:入母屋、本瓦葺、桁行3間、梁間2間−茨城県指定重要文化財)と1度移築され土浦戸長役場の正門や等覚寺の山門とされ再度城内に移築された旧前川門(高麗門:土浦市指定有形文化財)、霞門(高麗門)があり東櫓と西櫓(昭和24年まで現存していましたが台風により大破し、その古材を利用して再建)が復元されています。現在は亀城公園として整備され貴重な事から名称「土浦城跡及び櫓門」として昭和27年(1952)に茨城県指定史跡に指定されています。

【 前川口門:概要 】-前川口門は土浦城の現存城門の1つです。案内板によると「 この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形式の1つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。江戸時代末期の建築である。明治18年(1885)に土浦戸長役場(のち町役場)の門として、さらに大正9年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、昭和56年(1981)移築されたものである。 土浦市教育委員会 」とあります。土浦城前川口門は文久2年(1862)に建てられたもので、切妻、本瓦葺き、三間一戸、高麗門形式、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、向かって右側潜戸付、江戸時代の城門建築として貴重な事から昭和46年(1971)7月13日に土浦市指定文化財に指定されています。

【 太鼓門:概要 】-土浦城の太鼓門は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで東軍に与した功により藤井松平家の当主である松平信一が3万5千石で入封し土浦藩を立藩し土浦城を整備した際、慶長6年(1601)頃に造営されたとされます。当初は単層の城門だったようですが西尾忠照が藩主時代の元和8年(1622)に櫓門に改築、さらに、朽木稙綱が藩主時代の明暦2年(1656)に太鼓櫓門に改築したとも云われています。明治4年(1871)の廃藩置県により土浦藩が廃藩、明治6年(1873)に廃城令が発令され土浦城は廃城になりましたが、施設としては維持され新治県の県庁や新治郡の郡役所などに利用されました。しかし、火災や台風、老朽化などで随時取り壊され現在は城内に太鼓門、前川口門、裏門(霞門)のみが現存しています。土浦城太鼓門は、入母屋、本瓦葺き(棟瓦両端には鯱)、三間一戸、桁行3間、梁間3間、上層部の外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、正面には格子戸、他三面にも引戸式の窓付、下層部向かって左側潜戸付、上層部には城内に時を知らせる太鼓が置かれた事から名称の由来となっています。

【 裏門(霞門):概要 】-土浦城裏門は江戸時代中期の貞享元年(1684)、松平信興が藩主時代に造営された建物です。土浦城本丸の東側に位置し、2層の東櫓(平成10年:1998年、土浦市立博物館の付属展示館として復元)と枡形を形成しています。土浦城の裏側(搦手)にあたる事から裏門、又は霞橋と隣接している事から霞門と呼ばれています。切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門形式、袖壁付、門扉に潜戸付。

土浦城の文化財
・ 太鼓櫓門(表門)−明暦2年−入母屋、本瓦葺−茨城県指定重要文化財
・ 旧前川門−文久2年−切妻、本瓦葺、高麗門−土浦市指定有形文化財
・ 亀城のシイ-推定樹齢500年,樹高16m,幹周7.4m-茨城県指定天然記念物
・ 土浦城内(亀城公園)−茨城県指定史跡

土浦城:写真

土浦城(亀城)の象徴的な存在である太鼓櫓門
[ 付近地図: 茨城県土浦市 ]・[ 土浦市:歴史・観光・見所 ]
土浦城(亀城)の裏升形には人気がなかった 土浦城(亀城)裏升形に設けれた裏門 土浦城(亀城)内堀越に見える太鼓櫓門 土浦城(亀城)内堀越に見える西櫓
土浦城(亀城)の城内に移築された旧前川門 土浦城(亀城)の本丸、現在、御殿はありません 土浦城(亀城)東櫓は復元されたものです 土浦城(亀城)二の丸


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