笠間城(別名:桂城)概要: 鎌倉時代の建保2年(1214)佐白山と布引山との間に宗教対立が起こり、仲裁に入った当時の領主宇都宮氏は家臣である塩谷時朝を派兵、時朝は両寺とも焼き討ちし承久元年(1219)佐白山に笠間城を築くと笠間家の祖となりました。笠間氏は宇都宮氏に従属しながらも国人領主化しこの地を18代、380年余り支配しました。
天正18年(1590)主家である宇都宮氏の意に背き豊臣秀吉による小田原攻めに参加しなかった事から笠間氏は取り潰しとなり、笠間城には宇都宮国綱の家臣玉生勝昌が入ります(笠間氏は豊臣方として従軍したものの国綱への反抗的な態度から攻め滅ぼされたとの説もあります)。
慶長2年(1597)、宇都宮国綱が改易になると慶長3年(1598)に蒲生秀行が宇都宮城に入封、笠間城には家臣である蒲生郷成が入り、城郭の整備拡張し現在見られる規模の祖形を造り上げます(蒲生氏郷は会津鶴ヶ城91万石の大大名でしたが秀行は家臣をまとめきれず宇都宮城12万石に厳封となり、郷成も二本松城4万石から笠間城3万石に厳封されています)。
慶長6年(1601)、関が原の戦いの功により松平康重が3万石で入封し笠間藩を立藩、笠間城には藩庁が置かれ整備されますが慶長13年(1608)に小笠原吉次(3万石)、慶長17年(1612)に松平康長(3万石)、元和3年(1617)に永井直勝(3万2千石)、元和8年(1622)に浅野長重(5万3千石)、正保2年(1645)に井上正利(5万石)、元禄5年(1692)に松平宗資(4万石)、元禄15年(1702)に井上正岑(6万石)と短期間に様々な大名が入れ替わっています。
永享4年(1747)に井上正経が陸奥磐城平藩に移封となり、代わって牧野貞通が8万石で藩主になるとようやく安定し、以後、歴代牧野家(貞通→貞長→貞喜→貞幹→貞一→貞勝→貞久→貞直→貞寧)が城主を歴任し明治維新まで続きます。
笠間城は明治6年(1873)に廃城となり多くの施設が破棄されましたが、石垣や土塁、空掘、郭の形状など比較的保存状態がよく、八幡台櫓が麓にある真浄寺に移された他、裏門や薬医門も民間に払い下げられて現存しています。又、天守台跡に建つ佐志能神社は笠間城を解体した時の廃材が使われているとされ、本殿を囲んでいる築地塀は天守閣の瓦が利用されたと伝わっています。
【 笠間城の縄張り 】-笠間城は佐白山(標高:182m)の山頂付近に築かれた山城で、山頂の天守曲輪から一段下がった所に本丸、二ノ曲輪、三ノ曲輪、中腹に千人溜があり、天守曲輪には2層の天守閣が上がり、本丸には八幡台櫓、穴ヶ崎櫓、屋館、玄関門、東門、東櫓門などがありました。江戸時代に入ると城下町近くの麓に藩主の下屋敷を儲け、事実上の本丸として政務が執り行われ、周囲には家老屋敷などが軒を連ねました(麓には浅野家の家老を歴任し吉良邸討ち入りを果たした大石内蔵助を排出した大石家屋敷跡があります)。笠間城の城蹟全域(37000u)は貴重な事から平成5年(1993)に笠間市指定史跡に指定されています。
【 八幡台櫓:概要 】-当建物は本丸の八幡台にあった八幡台櫓として建てられたもので、当時は物見の他、武器庫として利用されていました。明治時代初期に笠間城が廃城になった事を受け明治13年(1880)に真浄寺の七面堂として現在地に移築されています。旧八幡台櫓は木造2階、塗屋造、白漆喰仕上、入母屋、瓦葺、1階桁行8m、梁間6.57m、2階桁行6.18m、正面切妻向拝付、貴重な事から茨城県指定有形文化財に指定されています。
【 城門・裏門:概要 】-明治時代初期に笠間城が廃城になった際、多くの建物が民間に払い下げになりましたが、当門もその一つとされます。形式は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、桁行3.95m、梁間1.8m、高さ4.5m、薬医門形式。部材、金具、門扉などが笠間城の城門と裏門として建築された当時のままとされます。昭和57年(1982)6月24日に笠間市指定文化財に指定されています。
笠間城の文化財
・ 八幡台櫓-江戸-木造2層2階建、塗屋造、入母屋、本瓦葺-茨城県指定文化財
・ 城門−江戸時代−切妻、桟瓦葺、薬医門、間口3.95m−笠間市指定文化財
・ 裏門−江戸時代−切妻、桟瓦葺、薬医門、間口3.95m−笠間市指定文化財
・ 城域全体−笠間市指定史跡
薬医門を簡単に説明した動画
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