羽梨山神社(笠間市)概要: 羽梨山神社は茨城県笠間市上郷に鎮座している神社です。羽梨山神社の創建は不詳ですが日本武尊が東夷東征でこの地へ訪れた時、磐筒男と磐筒女が山菓を差し入れし、それによって兵卒の力が漲り見事勝利した事から磐麻国朝日丘に2人を祀ったのが始まりと伝えられています。
その後、天智天皇三年(664)に木花咲耶姫命の分霊を勧請し祠を建立、花白山神社と呼ばれるようになりそれが転じて羽梨山神社になったそうです。大同元年(806)には勅額を賜い、貞観12年(870)には従五位上に仁和元年(885)には正五位下に列するなど社運は隆盛し、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に記載されている式内小社にも列しました。
【 羽梨山神社と領主 】-歴代領主や権力者にも崇敬され坂上田村麿や平貞盛(平将門の乱平定の為、武運長久を祈願)、源頼義、義家父子、源頼朝などが多くの宝物を寄進しています。中世は領主だった宍戸氏の崇敬社となり宍戸33郷の鎮守と定め、社殿の造営や社領の寄進など行われました。室町時代末期の天文11年(1542)兵火により社殿が焼失し一時衰退しますが江戸時代に入り幕府から社領5石が安堵されました。
慶長年間(1596〜1615年)に熊野大社の分霊を勧請合祀して以後、熊野権現などと呼ばれ別当寺院として普賢院が祭祀を司っていましたが明治6年(1873)に郷社に列し旧社号である羽梨山神社に復しています。
【 羽梨山神社の社殿 】-現在の羽梨山神社本殿は江戸時代中期の延享4年(1747)に再建されたもので、一間社流造、銅瓦棒葺、外壁は真壁造り板張り。羽梨山神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、正面千鳥破風、銅板葺き、平入、桁行3間、張間1間半、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。境内背後にある大杉は推定樹齢500年、幹周り約8m、高さ約40mあり平成14年(2002)に笠間市指定天然記念物に指定されています。現在の祭神は木花咲耶姫命 。
【 羽梨山神社と日本武尊 】-日本武尊の東国平定の進軍経路は下野国(栃木県)を通過する説と常陸国(茨城県)を通過する説があります。後に中央(大和国:現在の奈良県)と陸奥国府である多賀城(宮城県多賀城市)を結ぶ東山道、近世以降に整備された日光街道や奥州街道がある為、下野国説の方が有利と思われますが、伝承としては常陸国の方が上回り、羽梨山神社(茨城県笠間市上郷)もその一つとなっています。
羽梨山神社に伝わる伝承によると、日本武尊が東国を目指し当地まで進軍した際に磐麻(岩間)に布陣を敷きました。行軍が長引いた為、兵士達は食糧調達にも難儀し喉が渇き苦しんでいたところ、どこからともなく老翁と老媼が出現し、山果を兵達に分け与え飢渇を癒した事からこの危機を脱する事が出来ました。日本武尊が、この2人は一体何者なのかと尋ねると磐筒男と磐筒女である事が判りました。
日本武尊は2人に大変感謝し、凱旋時に当地を再び訪れた際、朝日丘に磐筒男と磐筒女を祭り、羽々矢二筋と果実を奉納し恩に報いたとし、この伝承により朝日丘は羽梨山と呼ばれるようになったと伝えられています。磐筒男は奈良時代に編纂された日本の歴史書である「古事記」では石筒之男神、「日本書紀」では磐筒男神と表記された神様で、イザナミがカグツチを産んだ際、体から発する業火によりイザナミの陰部が焼き尽くされ死んだ事から、イザナギが十拳剣によりカグツチを切り裂き飛び散った血が化生したとされます。
磐筒男神と磐筒女神の御子神が経津主神で、経津主神は香取神宮(千葉県香取市香取)の主祭神で、武甕槌大神が祭られている常陸国一宮である鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)と関係が深い事から、当初の羽梨山神社がその2社と何らかな関わりがあった可能性があります。
しかし、平安時代に纏められた歴史書である日本三代実録の巻第四十八、貞観12年(870)8月28日の条には「従五位下羽梨神従五位上」、仁和元年(885)9月7日戊子の条には「授常陸国従五位上羽梨神正五位」とあり、平安時代では羽梨神が祭られていた事が判ります。しかし、現在の羽梨山神社の主祭神は木花咲耶姫命で磐筒男神や磐筒女神、羽梨神は祭られていないようです。
実際は戦国時代の兵火により大きな被害があり、それ以前の由緒が不明で、木花咲耶姫命が祭られるようになり[ このはなのさくやびめ ]から[ はなしやま ]が成ったとも云われています。三代実録や延喜式神名帳、大同類聚方に記載されているものの、その他の伝承等には客観的な資料が無く、明確になるのは戦国時代以降で、羽梨山中腹に鎮座していたものを現在に遷座し江戸時代には幕府から朱印地5石が認められ熊野権現と称しています。
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