【 概 要 】−佐竹昌義は河内源氏2代目棟梁源頼義の3男源義光(新羅三郎)の孫とされる人物です。資料の混乱から生没年などの詳細は不詳ですが、義光が常陸介に就任すると常陸国で一定の勢力があった吉田一族と血縁関係を結び、長男の源義業を常陸国久慈郡佐竹郷へ3男の源義清を常陸国吉田郡武田郷に配したとされます。義光が直接常陸国で采配するとは考えられませんが、当時、常陸国奥七郡(那珂西,那珂東,久慈西,久慈東,佐都西,佐都東,多珂)で藤原秀郷から派を成した豪族達と対立構造にあった為、子供達を下向させたとも考えられ、義業は父親と同様、当地の実力者だった吉田清幹の娘を娶り昌義が生まれています。嘉承元年(1106)、一族である源義国が常陸国に侵攻、所謂「常陸合戦」が発生すると昌義は義光、義業と共に戦い勝利に貢献したとされます。
長承2年(1133)、昌義は天神林氏の居城である馬坂城(久慈郡佐竹郷)を急襲し攻め取り、ここを本拠として勢力の拡大を図ったようです。昌義は馬坂城の程近い観音寺(後の佐竹寺)の住職観賢上人に帰依し、保延6年(1140)に観音寺に赴き武運長久の祈願を行うと境内に生える二十尋(約36m)で節が1つしかない奇竹を発見した事から「ああ、この竹は私が出世する前兆を指し示すようだ」と喜び姓を「佐竹」に改めたという逸話が残され「佐竹冠者」と呼ばれるようになっています(この伝承から佐竹寺(茨城県常陸太田市)は佐竹氏発祥の地とされます)。昌義は藤原清衡の娘を娶った事で奥州藤原氏の勢力を味方に着け、有力者だった小野崎通長を服属させ小野崎氏の居城だった太田城に入り常陸国奥七郡支配を確立しています(太田城に入ったのは昌義の跡を継いだ佐竹隆義という説もあります)。治承元年(1177)、年齢的には隠居していたと思われますが佐竹寺に建立されている石碑によると佐竹昌義が佐竹寺に寺領300貫を寄進した旨が刻み込まれています。
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