【 概 要 】−本堂家は源頼朝と伊東祐親の娘である八重姫の子供である源忠頼が陸奥国和賀郡に流され和賀氏を名乗り、その3男である和賀忠朝が出羽国山本郡(現在の仙北郡)本堂を領し(居城:本堂城)、その地名から本堂氏を名乗ったの始まりとされます。ただし一般的な通説では源忠頼(千鶴丸)は伊東祐親の思慮、又は北条時政の画策により幼少時に自害、又は殺害されたとされ、陸奥国に流され事や子孫がいた事などは疑問視されます。又、和賀氏(基義)が始めて山本郡(現在の仙北郡)を掌握するのは観応3年(1352)以降なので本堂家の発生は早くとも室町時代初期と推定されています。
戦国時代の出羽国北部は山本郡角館城(秋田県仙北市角館町)を本拠とする戸沢氏や雄勝郡横手城(秋田県横手市)を本拠にする小野寺氏、日本海側を掌握する安東氏(後の秋田氏)などが割拠しましたが本堂家はそれらの諸氏よりも石高が低かった事から何れかの陣営に与する事でどうにか独立を保っていました。天正18年(1590)の小田原の役で当時の当主本堂忠親は小田原参陣を果し8千983石が安堵され国人領主として地位が確立しています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは跡を継いだ茂親が出羽国唯一西軍に与した小野寺氏を攻めています。慶長7年(1602)、東軍に与したものの8千5百石に減じられ常陸国新治郡志筑領(かすみがうら市)に入封、一説には現在の福島県の山間で2万石の打診があったそうですが、それを断り肥沃な筑領を望んだとも云われています。実際は同じく東軍に与した秋田氏(安東氏)や戸沢氏なども石高を減らされていて、最上家が幕府に対して出羽諸将は非協力的や西軍に与したなど虚言を繰り返した為正当な評価を獲られなったと思われます。
茂親の跡を継いだ栄親は弟に500石を分知し8千石となり後裔は引き続き江戸幕府の旗本(交代寄合)を歴任にし明治維新を迎えています。最後の当主である親久は戊辰戦争の際、新政府軍に与した事かた1万110石に加増され志筑藩を立藩し初代藩主となっています。長興寺(かすみがうら市)は本堂家の領内菩提寺で初代本堂茂親が開基となり創建、境内には茂親、2代栄親、3代玄親、4代伊親、9代親道、10代親久が葬られ、残りの当主は江戸の菩提寺である青竜寺(東京都港区芝)に葬られています。長興寺境内にが歴代本堂氏の墓碑が残されかすみがうら市指定史跡に指定されています。
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