【 概 要 】−伊佐氏は天永2年(1111)、藤原実宗(藤原定任の長男)が常陸国伊佐郡を与えられ地名から伊佐氏を称したことが始まりとされます。文治5年(1189)に行われた奥州合戦の石那坂の戦いで大功があり伊達郡と信夫郡を賜わると当主である常陸入道念西は上記の2郡に入り地名から伊達氏を称し、戦国時代に伊達政宗を輩出する伊達家の祖となり、長男である為宗は引き続き伊佐郡に留まり伊佐氏を継承しています。
承久3年(1221)に行われた承久の乱では鎌倉幕府執権の北条泰時に従い当時の当主が宇治川の戦いで討死しています。南北朝の争乱では南朝方に与し、一族である伊達氏や北畠氏、護良親王などと共に北朝方の高師冬等と対立しましたが興国4年(1343)、居城である伊佐城が落城し伊佐氏も没落しています。
中館観音寺(施無畏山延命院観音寺)は伊佐城の郭内に設けられた伊佐氏と伊達氏の菩提寺として崇敬庇護され、堂宇の造営や寺領の寄進が行われました。特に建武3年(1336)には伊達行朝によって本堂や五重塔をはじめ仁王紋、鐘楼、経堂など七堂伽藍を再建し新たに比叡山から実相坊心海を招いて中興開山しています。当地域の伊佐氏と伊達氏が没落すると奥州伊達家が庇護し元文元年(1736)には仙台藩5代藩主伊達吉村が参勤交代の際、当寺を訪れ螺鈿の硯箱と狩野探幽筆の八景の図を寄進しています。
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