皆川隆庸

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概要・歴史・観光・見所
皆川隆庸(常陸国総社宮)

【 概 要 】−皆川隆庸は天正9年(1581)に下野国の国人領主だった皆川広照と中御門宣綱の娘(北条氏政の養女)との子供として生まれました。天正18年(1590)の小田原の役後、広照は徳川家に従っていた為、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでも父子共々東軍として行動し、上杉景勝と戦になった場合は戦略拠点となる大田原城(栃木県大田原市)に入っています。上杉家との直接対決が回避されたものの、軍令違反を犯しつつ徳川家との対決を避けていた佐竹家の動向が問題となり、押えとして皆川父子や水谷勝俊(下館城の城主)などが鍋掛村(栃木県那須塩原市:奥州街道の鍋掛宿)に駐屯しています。その後、隆庸は徳川秀忠軍に従軍し上田城(長野県上田市)攻めに参加、大きな戦果を挙げられなかったものの、東軍に尽力した事が評価され慶長8年(1603)に皆川広照は松平忠輝(徳川家康の6男)の御附家老に抜擢され4万石が加増、合計7万5千石で飯山城(長野県飯山市)の城代となっています。隆庸の動向は不詳ですが、父親と共に松平忠輝に仕えていたと思われます。

慶長14年(1609)、広照は忠輝の行動に問題があった事から駿府城(静岡県静岡市)に在城した徳川家康に訴えたところ、逆に広照が家老として不適格であると裁定された為、改易となり隆庸も連座しています。隆庸は慶長19年(1614)に発生した大坂冬の陣では井伊直孝隊に属し、慶長20年(1615)に発生した大坂夏の陣でも井伊直孝隊として活躍し、若江の戦いでは大坂方の主力の一つ木村重成隊を壊滅させ多くの首級を挙げています。その後、井伊直孝隊は徳川秀忠軍に配属され、本陣まで攻め込まれた大坂方の大野治房隊を撃退し大きな働きをしています。

元和9年(1623)に大坂の陣での功績により広照は府中藩(茨城県石岡市)1万石で諸侯に復し、隆庸も行方郡内(茨城県南東部)5千石が与えられています。寛永2年(1625)に広照の隠居に伴い皆川家の家督を継ぎ、府中藩1万5千石の藩主に就任、この際、弟である皆川宗富に1千石余を分知し1万4千石となっています。寛永4年(1627)には藩庁である府中城(陣屋)の近くに鎮座している常陸国総社宮を現在地に遷座再興し社殿の造営を行っています。寛永8年(1831)に大番頭に抜擢され近江国浅井郡内4千石が加増され、合計1万8千石となています。正保2年(1645)死去、享年65歳、戒名:一陽院殿春厳紹智大居士。

常陸国総社宮:写真
常陸国総社宮参道に設けられた歴史を感じる茅葺屋根の神門 常陸国総社宮境内に設けられている神楽殿と拝殿 常陸国総社宮洗練された拝殿の意匠と酒樽、その前の石造狛犬 常陸国総社宮屋根しか見えない本殿



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