古河市: 正定寺

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概要・歴史・観光・見所

正定寺(古河市)概要: 証誠山宝地院正定寺は茨城県古河市大手町に境内を構えている浄土宗の寺院です。正定寺の創建は江戸時代初期の寛永10年(1633)、当時の古河藩(藩庁:古河城)の藩主で幕政で大老を務めた土井利勝が開基となり当誉玄哲和尚(江戸増上寺13世、古河市下大野にある正定寺41世)を招いて開山したのが始まりと伝えられています。

寛永21年(1644)に利勝が死去、跡を継いだ土井利隆は追善供養の為、正保3年(1646)に梵鐘を寄進しています。

寺号は利勝の戒名「宝池院殿前拾遺穏誉泰翁覚玄大居士」と名前から利勝山(証誠山)宝地院正定寺と号し、歴代土井家の菩提寺として庇護され寺運も隆盛しました。正定寺の寺宝には茨城県指定重要文化財に指定されている絹本著色土井利勝肖像画(一幅:縦80p、幅37p)を初め、利勝が利用したと伝わる海老胴具足、軍扇、真筆や利勝が拝領した家康の猿毛の槍のサヤなど土井家縁の品々を所有しています。

現在の正定寺本堂は天保3年(1832)に11代土井利位が再建したもので木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入、桁行8間、正面向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押さえ。山門は切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門。裏門は江戸時代末期に土井家江戸下屋敷表門として建てられた黒門(薬医門、切妻、桟瓦葺、高さ470cm、幅621cm、一間一戸)が昭和8年(1933)に移築され貴重な事から昭和43年(1968)に古河市指定文化財に指定されています。

正定寺境内には昭和2年(1927)、江戸の菩提寺だった誓願寺(元は浅草にありましが関東大震災で被災し現在は東京都府中市紅葉丘)から改葬された歴代土井家の墓所と平成2年(1990)に増上寺の安蓮社(東京都港区芝公園)から移された利勝の墓碑があり貴重な事から昭和50年(1975)に古河市指定史跡に指定されています。

境内の芭蕉塚が建立され「春もやや景色調う月と梅」が刻まれています。又、古河城下では名所の1つでもあり"正定寺の晩鐘"として古河八景にも選ばれています。古河七福神:弁財天。山号:証誠山。院号:宝地院。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

正定寺の文化財
・ 絹本着色土井利勝肖像画-江戸−縦80cm、幅37cm-茨城県指定文化財
・ 裏門-江戸-旧土井家江戸屋敷表門,切妻,桟瓦葺,薬医門-古河市指定文化財
・ 土井家墓所-江戸-初代土井利勝夫妻の宝篋印塔など-古河市指定史跡
・ 絹本着色土井利益夫妻肖像画-江戸-縦90cm、横37cm-古河市指定文化財
・ 土井家遺品(23点)−江戸時代−土井家縁の品々−古河市指定文化財

【 正定寺:菩提者(土井家) 】-土井家は清和源氏から発生した摂津源氏一族である美濃源氏土岐氏の庶流とされ土岐光定の次男定親の後裔とされる早乙女利重が三河国碧海郡土居村を領し、土井氏を称したのが発生の起源とされます。利重を継いだ土井利昌は徳川家に従い、水野信元(徳川家康の生母である於大の方の実兄)の庶子(3男)とされる利勝を養子にしたとされます。又、一説には利勝は徳川家康と利昌の娘(玉等院)との間に出来た御落胤で一旦水野家に養子に出され、再度土井家の養子になったとも云われています。利勝は形式的には家康の従兄弟にあたり、幼少の頃から後に2代将軍となる徳川秀忠の側近として近しい関係にありました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従軍し中山道を西上、上田城(長野県上田市)攻防戦にも参加しています。本戦となる関が原には到着出来なかったものの慶長7年(1602)には下総国小見川藩(千葉県香取市)1万石を与えられ諸侯に列し、慶長15年(1610)には3万2千石で佐倉藩(千葉県佐倉市)に移封し幕政では老中に就任しています。さらに出世は続き寛永10年(1633)には古河藩(茨城県古河市−古河城)16万石に移封、寛永15年(1638)には大老に就任しています。

寛永21年(1644)死去、享年72歳、戒名「宝池院殿前拾遺穏誉泰翁覚玄大居士」。古河藩は長男である利隆が継ぎましたが、利勝の遺言により弟である利長と利房に1万石、利直に5千石が分知され13万5千石になっています。3代利重になると弟の利益に1万石、叔父にあたる利長と利房に1万石、利直に5千石を分知した為、10万石となり家臣も大量解雇されました。

4代藩主利久は幼少で早世した為、後継をおらず、土井家の改易も示唆されましたが譜代の名門も惜しみ分家した利益(2代藩主土井利隆の次男)が5代藩主に就任、ただし7万石に減じられ、天和元年(1681)には鳥羽藩(三重県鳥羽市)7万石で移封となっています。宝暦12年(1762)、土井家宗家8代を継いだ土井利里(旗本土井利清の次男)が古河藩に移封となり土井家が古河藩主に復権しています。跡を継いだ利厚は奏者番、寺社奉行兼帯、京都所司代、老中などを歴任し土井家中興の祖と呼ばれる人物で文政4念(1821)には1万石が加増されています。

跡を継いだ利位(三河刈谷藩主土井利徳4男)も利厚は奏者番、寺社奉行兼帯、大坂城代、京都所司代、老中など幕政で活躍しました。最後の藩主となった利与は戊辰戦争の際は逸早く新政府軍に協力し会津征討軍の兵糧方として功を挙げています。正定寺は初代土井利勝が寛永10年(1633)に古河大野にある正定寺の住職である当誉玄哲和尚を招いて創建した土井家の領内菩提寺で、多くの藩主は江戸菩提寺である誓願寺に葬られましたが昭和に入り境内整備などが行われ正定寺(古河市)に改葬されています。又、正定寺には土井家縁の品々を多数所有し23点が古河市指定文化財に指定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(旧土井家江戸下屋敷表門:正定寺黒門)-古河市教育委員会
・ 現地案内板(土井家墓所)-古河市教育委員会

正定寺:写真

正定寺の正面にある山門(赤門)
境内正面にある山門(赤門)
正定寺山門(赤門)から見た境内
山門(赤門)から見た境内の様子
正定寺の本堂正面
参道石畳みから見た本堂正面
正定寺の境内に設けられた古河七福神(弁財天)
境内に設けられた古河七福神(弁財天)
正定寺の境内に建立されている土井利勝夫妻の宝篋印塔(墓碑)
土井利勝夫妻の宝篋印塔(墓碑)


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