頼政神社(古河市)概要: 頼政神社は茨城県古河市錦町に鎮座している神社です。頼政神社の創建は治承4年(1180)源三位頼政が平家と宇治で戦いに敗れ自刃、家臣が首をもってこの地に訪れたところ急に体が動かなくなった事から霊地と悟り、塚を築き頼政の首を祀ったの始まりと伝えられています。古河城が築かれると頼政神社は頼政郭に組み込まれ城の鎮護社として城主から崇敬されます。
特に江戸時代古河藩の藩主となった松平信輝の弟輝貞は、自らの居城である高崎城(群馬県高崎市)の鎮護社として分霊を勧請し頼政神社を創建し、信輝の子、信祝の代に吉田城(愛知県豊橋市)に国替えになった時も自国に勧請しています(当所は吉田城の城内に御霊屋が設けられていましたが、吉田城が廃城になると豊城神社が創建されました)。
明治時代に入り廃藩置県が施行されると古河藩が廃藩、古河城は廃城になりましたが頼政神社は残され、明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て明治20年(1887)に村社に列し、大正元年(1912)に河川改修により現在地である観音寺曲輪土塁上に遷座しています。
松平信輝は松平伊豆守系大河内松平家3代目当主でもあり、大河内松平家は摂津源氏「源頼政」の孫顕綱の後裔と称した氏族とされます。顕綱の後裔は室町時代に吉良家の家老となり、戦国時代に吉良家が没落すると徳川家の家臣となります。天正15年(1587)、当時の当主「正綱」が、徳川家康の命により長沢松平家分家である松平正次の養子となり、以後、松平姓名乗る事を許されています。正綱の甥で養子となった松平信綱の孫が松平信輝に当たる為、家系図上は松平信輝の祖は源頼政という事となり、信輝や弟の輝貞は祖先を祭る頼政神社を篤く遇したという事になります。
大正元年(1912)に現在地に遷座した際、鎮座地から立崎古墳の副葬品と思われる金環・管玉・小玉・矢の根・大刀の断片が発掘され、現在は頼政神社の社宝として所有、立崎古墳副葬品として昭和42年(1967)に古河市指定文化財(考古資料)に指定されています。
又、松平輝貞が頼政神社に寄進した大燈籠(1対)と松平家家臣が寄進した手水鉢(1基)と燈籠(1対)、寄進者不明の狛犬(1対)が江戸時代前期に制作された石造物として貴重な事から昭和52年(1977)に古河市指定文化財(歴史資料)に指定されています。頼政神社の拝殿は入母屋、桟瓦葺、平入、桁行2間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り。本殿は覆い屋内部の為不詳。祭神:源三位頼政。
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