・谷田部陣屋は元和4年に細川興元が谷田部藩を立藩した際に谷田部城の跡地の一画に藩庁として設けられました。
細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男として生まれ、当初は織田信長に仕え、本能寺の変で信長が没すると、羽柴秀吉に従っています。
その後、兄である細川忠興の正室、ガラシャや、忠興の次男で興元の養子となった細川興秋、家臣の加賀山興良、高山右近等の影響を受けキリシタンとなっています。
慶長3年に豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近し、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは東軍として従軍し功績を挙げ、小倉城代に抜擢されています。
しかし、忠興とは仲が悪く、慶長6年には黒田長政の協力を得て肥後細川家から出奔しています。
慶長13年に許され、慶長15年に2代将軍徳川秀忠から下野国芳賀郡茂木1万石が与えられ茂木藩を立藩しています。
慶長19年に発生した大坂冬の陣では酒井忠世隊、慶長20年に発生した大坂夏の陣では酒井忠行隊に従軍し功績を挙げ、元和2年に常陸国筑波郡・河内郡内6千2百石が加増され合計1万6千2百石となっています。
元和3年には徳川秀忠の御枷衆に任ぜらえ元和4年に谷田部陣屋に藩庁を遷し谷田部藩を立藩しています。
2代藩主細川興昌は陣屋町の整備に尽力し、六歳市を開設、3代藩主細川興隆は領内で大規模な検地を行い藩政の基礎が固められています。
しかし、興隆は下館城在番、大坂加番、駿府加番、沼田城在番等を命じられた為、費用が嵩み次第に財政が逼迫しています。
その後も自然災害や飢饉、旱魃等が頻発、寛政6年には7代藩主細川興徳が藩校である「弘道館」を創設し、藩士の人材育成に尽力するものの、文政元年、文政12年、天保5年には江戸藩邸が火災により大きな被害を受け、天保6年には細川家の菩提寺である能持院も火災を受けています。
興徳は農民に対して重税を課してこれらに対処したようで、百姓一揆が頻発、人口も立藩当初よりも半減し、領地が荒廃した事から天保6年には二宮尊徳の尊徳仕法と藩医である中村勧農衛を中心に藩政改革が行われ、跡を継いだ8代藩主細川興建の代に一応の成果があったとされます。
戊辰戦争の際、9代藩主細川興貫は新政府軍に恭順した為、領地が安堵され明治2年の版籍奉還により谷田部藩知事に就任しています。
明治3年に興貫は本拠地を茂木に遷し、明治4年に施行された廃藩置県後、谷田部陣屋は小学校舎や筑波郡役所として利用され、郡役所が廃止になると谷田部小学校の敷地となっています。
天保15年の火災後には再建された陣屋には役所や藩主居館、藩校、馬場等が整備されていたものの、時代の変遷により多くの遺構は失われましたが、谷田部小学校近くの谷田部公民館に陣屋の玄関、つくば市内の民家に陣屋門の一つが移築され現存しています。
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