| ・部垂城は応永10年に河崎頼幹が築城したとされます。
河崎頼幹は常陸平氏である大掾氏の祖とも云われる馬場資幹の子孫とされる人物で、後裔は「人見」姓を掲げ城主を歴任したとされます。
その後、大塚豊前守が城主となりましたが、長禄年間に小貫頼定により攻められ部垂城は落城しています。
小貫氏は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔の藤原公通の3男通近が常陸国久慈軍倭文郷岩瀬に配され、地名に因み「岩瀬」姓を掲げ、その一族が小貫に配され、地名に因み「岩瀬」姓を掲げ、その一族が小貫に配され地名に因み「小貫」姓を掲げたのが始まりとされます。
15世紀は佐竹宗家と、その有力一族である山入氏が激しく対立しており、小貫頼定は間隙を突いて版図を広げ、その一環で部垂城を攻略、その後は70年間、3代にわかり小貫家が城主を歴任しています。
享禄2年に佐竹家16代当主佐竹義篤の弟である宇留野義元が部垂城を強襲し、当時の城主だった小貫俊通は討死、義元は城を占拠すると「部垂」姓を掲げ、義篤と対峙しました。
義元は部垂城を拠点として周辺の義篤方の城を次々と攻略、天文3年には鹿子原合戦や口尾瀬合戦が行われ、近くの部垂前小屋城や部垂要害等も攻防戦が繰り広げられています。
天文4年には高久義貞が義元に呼応して挙兵すると、義元も小瀬で義篤方と合戦に及んでいます。
天文5年には和睦が成立しましたが、天文7年と天文8年には部垂周辺で攻防戦が行われています。
その後、一時和睦が成立したようですが、天文9年、義元の家臣である大賀外記が部垂城の大手筋の橋の改修工事を担当したものの不手際を非難された事が蟠りとなり出奔、これを好機と見た義篤は部垂城を急襲、義元方は戦力が整わず、少数で奮戦したものの義元をはじめ養父の宇留野義久、義兄弟の小場義実等と共に自刃して果てています。
義元の嫡男竹寿丸は何とか落ち延びたものの義篤方に転じた黒沢大学に捕縛され、その後、惨殺されています。
部垂城はその後再建される事となく廃城となり、残された義元の家臣や協力者「部垂衆」と呼ばれ佐竹宗家の給人として仕えています。
部垂城は久慈川河岸段丘西岸の大宮台地北側縁辺部に位置し、大きく4つの曲輪が直線状に配されています。
現在の大宮小学校の敷地が主郭と推定され隣接する曲輪とは空堀で分断され、北側は急斜面で随所に帯廓や竪堀が設けられています。
多くの遺構は消滅していますが、北側には僅かに土塁の一部が残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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