志筑城

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志筑城:略データ
・場 所・茨城県かすみがうら市中志筑
・築城年・鎌倉時代初期
・築城者・下河辺政義
・城 主・下河辺氏・益戸氏・本堂氏
・構 造・平山城・陣屋
・文化財・茨城県指定史跡
・指定日・昭和10年11月26日
・概 要・志筑城は鎌倉時代初期に下河辺政義が築いたのが始まりとされます。

下河辺誠義は藤原秀郷の流れを汲む小山氏の一族である下河辺行義の子供として生まれています。

早くから源頼朝に従い、寿永4年には鎌倉に侵攻した志田義広を小山家一族と共に野木宮(栃木県野木町)で迎え撃ち勝利に貢献しています。

鎌倉幕府が開府すると政義は頼朝の近習として各地に随行し、そこ功績が評価され元暦元年に常陸国南部の所領と雑税が免除となり、この頃に志筑城が築かれたと思われます。

その後、奥方の姉妹が源義経の側室だった事から、義経が謀反を起こすと連座しましたが、文治3年頃に復権し後裔は「益戸」姓を掲げ長く当地を支配しました。

南北朝時代の城主である益戸顕助、国行父子は南朝方に与し、半年にわたり北朝方と激しい戦いを繰り広げましたが、興国2年に北朝方の有力武将高師冬の命を受けた大掾高幹に攻められ志筑城は落城、南朝方の小田氏の本拠地小田城も落城した為、一族である小山氏を頼り落ち延びています。

その後、長い間志筑城が利用されたとの記録が無い事から廃城になったと思われます。

慶長7年、常陸国の大部分を領していた佐竹義宣が関ヶ原の戦いで徳川家の命を背き東西中立を選択した事から久保田藩に減封となり、代わって久保田藩領の一部から8千5百石で当地に入封した本堂茂親が志筑城の跡地に陣屋を設けています。

一方、当初は笠松城に入り、正保2年に本拠地を志筑に遷し陣屋を設けたとの説もあります。

本堂氏は出羽国山本郡(現在の仙北郡)本堂を本貫とする国人領主で、陸奥国和賀郡を領した和賀氏の庶流とされます。

戦国時代の当主だった本堂茂親は山本郡本堂を拠点とした小大名で、天正18年に発生した小田原の役では豊臣方に参陣を秦氏8千983石を安堵されました。

慶長5年の関ヶ原の戦いでは東軍に与したものの、慶長6年に常陸国新治郡8千500石に減封されています。

現在の秋田県内を拠点とし、東軍に協力した秋田氏や戸沢氏も同じく減封されており、最上家が出羽国統一を図る為に徳川家に虚言を報告したとの説もあります。

正保2年に茂親の子供である本堂栄親が家督を継いだ際、弟の本堂親澄に500石を分知した為、本領は8千石となっています。

戊辰戦争の際、当主だった本堂親久は周辺の領主より逸早く新政府方に転じた為、勝利後は高直しが認められ合計1万110石で諸侯に列し志筑藩を立藩しています。

しかし、明治4年に施行された廃藩置県により僅か数年で志筑藩は廃藩、志筑陣屋も廃止となっています。

志筑城は東西約160m、南北約180m、周囲を土塁で囲い、さらにその外側の三方を外堀に見立てた深い水田を配しています。

現在も土塁の一部や郭の形状、切岸等の遺構が残されています。志筑城の跡地は貴重な事から茨城県指定史跡に指定されています。

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