・山川館が何時頃築城されたのかは不詳ですが、建仁年間に山川重光が築いたのが始まりと伝えられています。
重光は藤原秀郷の後裔の小山政光の子孫である結城朝光の四男で下総国結城郡山川郷を本貫とした事から地名に因み「山川」姓を掲げました。重光は寛元元年に山川庄の地頭にも任ぜられ地位を確立しています。
その後、山川氏は結城家の有力一族として重きを成し、「結城四天王」に数えられています。
永享10年に結城合戦が発生すると山川広朝は結城氏の本白である結城城の籠城戦に参陣、上杉清方率いる10万の兵を迎え撃ちましたが、嘉吉元年に結城城は落城しています。
山川家は本家筋の結城氏朝の弟で入り婿だった山川氏義が采配し結城氏も没落した事で、その遺領も管轄する立場となりました。
しかし、結城成朝が結城家を再興した事で結城家の遺領が返還され、次第に対立するようになっています。
氏義の跡を継いだ山川景貞は弟の景胤を一族である小山家に養子として送り込み、結城家に対しても大きな影響力を持っていたとされます。明応8年に景貞が死去すると次第に衰微し、結城家の家臣化が進みました。
その後は結城氏に従い各地に従軍し隣接する多賀谷氏や小田氏等と激戦を繰り広げています。
永禄3年、山川氏重は結城家を離反し上杉謙信の関東侵攻に呼応すると、永禄6年には結城晴朝も上杉家に与し両家が小田原北条家に対しています。
永禄8年に山川館から南西2キロ程離れた所に山川綾戸城を築き本拠地を遷し、山川館には代官を派遣したようです。
天正18年に発生した小田原の役で豊臣方に参陣した事で山川晴重は所領を安堵され、独立した大名に認められたようですが、その後は結城家の与力的な扱いを受け、慶長6年に結城秀康が越後国に移封になると山川朝重も重臣としてこれに従い、跡を継いだ山川朝貞は越前国吉田郡花谷1万7千石を安堵されています。
江戸時代に入ると当地は天領となった為、代官となった伊那備前守忠次は山川館の跡地に代官所を設けて横田次郎兵衛等を配しています。
慶長14年に松平貞綱が山川領に入封すると1万5千石で山川藩を立藩、藩庁を山川綾戸城に定めた為、代官所は廃され寛永3年に曹洞宗の東持寺が当地に境内を遷しています。
山川館は東西約150m、南北約187mの単郭の中世の居館で、四周を高さ3〜4mの土塁と堀で囲っていました。現在も土塁や堀の遺構が残され、往時を偲ぶ事が出来ます。
茨城県:城郭・再生リスト
|