山川綾戸城

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山川綾戸城:略データ
・場 所・茨城県結城市山川新宿
・築城年・天慶2年
・築城者・平将門
・城 主・坂田蔵人将幸・山川氏・松平定綱・水野氏・太田資宗
・構 造・平城
・文化財・結城市指定史跡
・指定日・昭和42年2月9日
・概 要・山川綾戸城は天慶2年に平将門によって築かれたのが始まりとされ、当地には将門に従った坂田蔵人将幸を配したと伝えられています。

天慶3年に将門が藤原秀郷、平貞盛、源経基等の追討軍に敗れ討死すると、経基の家臣である河野小太郎幸光に攻められ落城、そのまま廃城となっています。

山川綾戸城の近くに境内を構えている山川不動尊の本尊は弘法大師空海が彫刻したとされ平将門の家臣が山川綾戸城に退いた際に持ち込んだものと伝えられています。

寛元元年に結城氏初代当主結城朝光の4男である五郎重光が山川庄の地頭職に任命され、当地に赴任すると山川館を設けたとされ、詳細は判りませんが、山川綾戸城はその支城のような役割を持った可能性があります。

永禄8年に山川氏14代当主山川駿河守氏重は本城を山川館から当地に遷した事から当城が本格的な城郭に拡張整備されたと推定されています。

氏重は主家である結城家に従い小田原北条氏に与していましたが、永禄3年に上杉謙信が関東に侵攻すると結城家から離反し上杉方に転じました。

永禄6年に結城家が北条家との関係を清算し上杉方に転じた為、氏重も結城家との関係を修復しています。

天正3年に北条氏は小山領に侵攻し、そこを拠点として天正5年に結城、山川領に侵攻、氏重の跡を継いだ山川晴重は結城晴朝と共に、協力関係にあった宇都宮氏、佐竹氏、那須氏から援軍を得て撃退しています。

天正18年に発生した小田原の役では豊臣方に与した為、所領が安堵され、奥州仕置きに反発した葛西大崎一揆では徳川家康の命を受けた結城秀康に従軍し一揆掃討に尽力しています。

慶長5年の関ヶ原の戦い際、晴重の跡を継いだ朝貞は東軍に与した結城秀康に従い、西軍の上杉景勝の牽制役を担っています。慶長6年に秀康が越前に移封になると朝貞もこれに従い当地を離れています。

慶長9年に松平定勝の3男である松平定綱が山川領5千石が与えられ、慶長14年に1万石が加増、合計1万5千石で山川藩を立藩し、山川綾戸城に藩庁が置かれています。

元和2年に定綱が下妻藩に移封になると水野忠元が入封し、山川綾戸城の改修や城下町の町割りに尽力してます。

寛永12年に水野忠善が田中藩に移封になると、1万5千6百石で太田資宗が入封、しかし、寛永15年に西尾藩に移封になった事から山川藩は廃藩となり、山川綾戸城も廃城になったと思われます。

寛永16年以降は壬生藩三浦家2万5千石の飛地となり、山川綾戸城の城址に出張陣屋を設けて、周辺6千9百石分の管理を行い、藩主が他家に交代しても壬生藩の管理が幕末まで続いています。

山川綾戸城は山川沼と呼ばれる沼地に突き出した半島状の地形に位置し、先端に主郭を配し、北側に従って二之郭、三之郭が設けられました。

東、南、西側の三方は沼地に囲われた要害だった為、弱点である北側には三重から四重の堀と土塁を設け防衛を強化しています。

現在は土地甲斐領区事業や宅地や耕作地となり多くの遺構は失われていますが、三之郭北西土塁の一部が残されています。

山川綾戸城の城址は貴重な事から結城市指定史跡に指定されています。

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