・烟田城が何時頃築城されたのかは判りませんが、長く烟田氏の居城として利用されていました。
烟田氏は常陸平氏大掾氏一族、鹿島氏の分流とされ、鹿島氏の祖とされる鹿島成幹の子供で、徳宿家の祖とされる徳宿親幹の子供、秀幹が天福2年に三男の朝秀に常陸国鹿島郡徳宿郷烟田村を分知し、その朝秀が地名に因み「烟田」姓を掲げたとされます。
天福2年10月21日の烟田秀幹譲状には「徳宿郷内三朗朝秀分村々、烟田・冨田・大和田・生江沢」と記されており当地が朝秀に譲渡された事が窺えます。
さらに文暦2年閏6月15日に発布された将軍家政所下文に「徳内郷内、烟田、冨田、大和田、生江沢、己上四箇村地頭職事」と記され、朝秀が鎌倉幕府の御家人で四箇村の地頭に就任した事が判ります。
南北朝時代の城主烟田時幹は本家筋の鹿島氏と共に北朝方に与し、常陸国内の南朝方との戦いの為、各地を転戦し功績を挙げています。
応永年間に本家筋の鹿島出羽守憲幹と鹿島神宮の社人との対立を受け、一時、一色氏の支配下に置かれましたが、その後、幕府の裁定により復権を果たしています。
応永33年11月の烟田幹胤支状には「先年鹿嶋社人等依申掠、惣領出羽守所帯於暫時被収公間、幹胤雖然無誤、号惣領同心、幹胤知行分烟田・大和田者、一色兵部被拝領・・・(中略)雖然出羽守無誤之旨、被聞召披、所帯悉被還捕間、不及御沙汰、自一色兵部方以書札、幹胤知行分返預畢」と記されています。
戦国時代になると江戸氏と対立関係にあったようで、軍記物の「江戸軍記」によると文明18年に江戸通長の侵攻を受け一族の徳宿氏と共に激しく抵抗したものの徳宿城は落城、烟田入道父子も討死、その後、周辺諸氏の援軍を得て樅山で決戦に及び、江戸氏は自領に引き上げたと記されています。
烟田泰幹の時代には本拠地を鉾田から大和田、再び鉾田、さらに烟田に温居地を遷し、鹿島氏に従属するようになっています。
その後、鹿島氏の内紛が続き、周辺の領主からの圧力を受けた為、永禄2年に烟田城の拡張が図られ、天正6年には西光院郭に築地が設けられ、さらに西側にも郭が拡張されています。
天正18年に発生した小田原の役で烟田通幹は佐竹義宣に従い豊臣方に参陣し、戦後は秀吉から所領が安堵されたものの翌、天正19年に佐竹氏は居城である太田城に常陸南部を支配する鹿島氏父子、玉造氏父子、中居氏、相鹿氏、小高氏父子、手賀氏兄弟、武田氏と共に烟田通幹兄弟も招かれ、そこで謀殺されています。
これにより城主を失った各家は大きく動揺、それに付け込むように佐竹氏が常陸南部に侵攻し、各城を撃破、烟田城も同様に落とされ廃城となっています。
文禄元年には西光院が現在地に境内を遷し、江戸時代には領主となった旗本渡辺氏が氷川神社を開創、明治22年に新宮尋常小学校の敷地となった為、多くの遺構が失われています。
現在は主郭跡の一部と推定される氷川神社付近と西光院付近に土塁と空堀の遺構が残されています。
茨城県:城郭・再生リスト
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