・牛久陣屋は寛永9年に牛久藩2代藩主山口弘隆によって築造されました。
山口氏は大内家第10代当主で周防国・長門国・石見国・豊前国・和泉国・紀伊国の守護職を担った大内義弘の次男である大内持盛を祖とする氏族で、その後裔の大内任世の代に尾張国愛知郡に本拠地を遷し、その子息、盛幸が故郷の地名に因み「山口」姓を掲げたとされます。
盛幸の跡を継いだ山口重政は当初、織田家に仕えたものの、天保18年に織田信雄が豊臣秀吉と対立し改易になると、徳川秀忠の家臣となっています。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは徳川秀忠隊に従軍し、上田城攻防戦にもっ従軍、その功績が認められ、上総国5千石、武蔵国5千石合計1万石が安堵されています。
重政は慶長11年には大番頭に任ぜられ、慶長16年には下野国に5千石が加増され合計1万5千石となっています。
しかし、慶長18年に大久保忠隣の養女と重政の嫡男である重信が幕府の許可無く婚姻関係を結んだ事が露呈し改易となっています。
慶長19年に発生した大坂冬の陣では参陣が叶わなかったものの、慶長20年の大坂夏の陣では井伊直孝隊に従軍、若江の戦いで、木村重成隊と激突し重信と弟の重克が討ち取られています。
その後も身分が定まらず元和8年には本多忠政に身柄を預けられましたが、寛永5年に釈免され、寛永6年に徳川秀忠から常陸国河内郡と遠江校内に1万5千石を拝領し牛久藩を立藩し、奏者番にも任じられています。
寛永12年に重政が死去すると四男である山口弘隆が家督を継ぎ、この時、弟の重恒に5千石を分知した事で1万石となっています。
寛文9年に弘隆は領内の中で3千3百石あった牛久領の旧牛久城下の一画に陣屋を設けて牛久藩の藩庁として整備しています。
戊辰戦争の際、12代藩主山口弘達は新政府軍に与し、龍ヶ崎や水海道に従軍、明治2年に版籍奉還を受け知藩事に就任、明治4年に廃藩置県を受け牛久藩が廃藩になると牛久県知事を務めたものの新治県に組み込まれた為、県庁舎として利用された陣屋も廃されています。
牛久陣屋は牛久沼に突き出た半島の先端に築かれたもので、中心部となる「御殿」の敷地は52間×50間、長屋門形式の表門の他、御役所、藩主御殿、新棟、米蔵、祖蔵、薪小屋、御作事小屋、味噌部屋、御土蔵、御文庫蔵等が設けられました。
「御殿」周囲は土塁で囲い、南側のみ堀が配され、南側の藩士屋敷が設けられた長屋方面に裏御門、西側に沼御門がありました。
現在、牛久陣屋の跡地には宅地や畑地、雑木林となり、陣屋門の一つが牛久市内にある民家に移築されています。
茨城県:城郭・再生リスト
|