・助川海防城は天保7年に水戸藩9代藩主徳川斉昭によって築かれました。
是より遡り江戸時代後期には、日本の沿岸部で度々外国船が出没するようになり、水戸藩では那珂湊と水木、磯原に海防番所を設置、近隣の郷士を海防の任に当てています。
水戸藩内の外国船関係の記録的初見は文政5年、川尻浜の漁師が沖合で外国船を見たのが始まりとされます。
文政6年には会瀬浜の漁師である忠五郎が海上で外国の捕鯨船を発見すると、その船に乗り移り、文政7年には大津浜に外国人12名が上陸し食料を求める事件が発生しています。
文政12年に徳川斉昭が水戸藩主に就任すると領内の海防に力を入れ、天保3年には海防係を設置し、大年寄頭上座の山野辺義観を海防尾用係に命じています。更に、一国一城令下で幕府に海防の為、陣屋を設けたいと申請し許可を得ています。
縄張りは水戸藩の兵学者である山国喜八郎が担当し、助川海防城が完成すると海防御用係だった山野辺義観が水戸藩の海防惣司に任命され知行1万石が安堵、部下247名と共に入城を果たしています。
義観の妹である直は斉昭の側室で、義観の長男の義正には斉昭の三女祝姫が嫁ぐ等、山野辺家は水戸徳川家と姻戚関係を結んだ為、特に義観は斉昭から信頼されており、弘化元年に幕府の命で斉昭が謹慎処分を受けると、義観も謹慎処分となっています。
跡を継いだ山野辺義正は斉昭が岳父になる為、非常に期待されましたが、病弱だった事もあり、城主に就任後僅か4年、嘉永2年、享年26歳で死去し家督は山野辺義芸が継いでいます。
義芸が安政元年に家老職に就任、万延元年に徳川斉昭が死去すると藩内の派閥争いが激化し、元和元年に天狗党の乱が発生しています。
水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊皇攘夷派が形成、義芸もその一員と見られ、天狗党も水戸藩内外の尊皇攘夷派が中心になっていた事から当時、水戸藩の執政を担っていた義芸は解任となっています。
さrに、幕府から天狗党追討令が発令されると二本松藩を中心とする幕府軍が助川海防城に派兵され、周囲を取り囲まれると僅か数日で落城し、投降に応じています。
助川海防城は総面積68万u、本丸の標高約113.4m、本丸を中心に二之丸、三之丸が配され、内部には屋敷構、土蔵、穀蔵、長屋、表門、居宅入口門、柵門(裏口)、武器庫、2階付遠見番所、居宅2階付物見、柵矢来、養正館、鉄炮教練所等が設けられていました。
助川海防城の城址は貴重な事から茨城県指定史跡に指定されています。
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