・木田余城の明確な築城年は不詳ですが、戦国時代に小田氏の家臣である信太氏によって築かれたとされます。
信太氏は古代豪族紀氏の後裔とされ、仁平元年に常陸国信太郡の大半が信太庄として藤原氏の荘園になると紀貞頼が信太庄の庄司に就任、当地に下向したのが始まりで、後裔が地名に因み「信太」姓を掲げたとされます。
鎌倉時代初期頃に八田家(後の小田家)が台頭すると、その軍門に下り、被官になったと思われます。
その後、信太氏は小田氏の有力家臣となり、小田宗知の後継者争いで、信太忠貞が推した、小田貞朝が小田家の惣領になると、忠貞は家中の執事に就任し地位を確立させています。
この頃に信太氏は当初の本拠地だった高津から木田余に遷ったとされ、庄司から地頭職に代わっています。
南北朝時代には当地の支配者が度々変わった事等から一時、土浦に居を遷しましたが、永享の乱後に信太家範が木田余に戻り、跡を継いだ信太輔範が木田余の「城の内」に居城を築いたと推定されています。
永正13年に菅谷勝貞が土浦城を若泉五郎左衛門から奪い取ると、小田政治は土浦城に輔範の弟である信太範貞を入れ、勝貞を範貞の養子として、木田余城には輔範の次男である信太範宗が配され当地に改めて築城したと思われます。
範宗は主君の小田氏治と対立した事から天文23年、又は永禄12年、又は永禄13年に氏治の命を受けて菅谷勝貞、又は菅谷政貞に土浦城で謀殺されたとされます。
一方、小田氏治は手這坂の戦いで佐竹勢に敗れ本城である小田城を失った為、菅谷氏を頼って土浦城に退去し、木田余城を仮の本城としたようです。
しかし、天正6年に佐竹勢との激しい攻防戦の末、木田余城は落城、佐竹義重の命により徹底的に破却されたそうです。
江戸時代初期に土浦藩主に就任した朽木家は荒廃した木田余城の跡地を憂い、寶積寺を遷し再興したものの明治28年に常磐線が開通しその経路となった為に境内が分断され、さらに明治36年に汽車の石炭が飛び火した事が原因で発生した火災により多くの堂宇が焼失し別地に移転しています。
現在は旧寶積寺境内と思われる一画に土塁と思われる土盛と、堀跡と思われる窪地が見られるものの、常磐線と線路と車両吉、宅地、蓮根畑に改変されている為、縄張りや規模等も窺える知る事が難しい状況となっています。
木田余城の跡地は貴重な事から土浦市指定史跡に指定されています。
城址の一角に設けられた五輪塔三基はそれぞれ、信太伊勢守範宗、その妻、その嫡子紀八のものと伝えられるもので、貴重な事から土浦市指定史跡に指定されています。
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