足高城

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足高城:略データ
・場 所・茨城県つくばみらい市城中
・築城年・−
・築城者・−
・城 主・岡見氏
・構 造・平山城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・足高城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、戦国時代には周辺を支配していた岡見氏の有力な支城だったと推測されています。

岡見氏は常陸国源姓小田氏系統と下総国平姓相馬氏系統であると後裔で紀州藩士だった岡見久映が文化3年に編纂した「岡見氏系図」に記しています。

永禄年間に小田氏方の勢力について記録された「小田味方地利覚書」におると岡見氏の本城として牛久城を挙げ、岡見氏の持城は牛久城の他、谷田部城と東林城の名が見られるものの、足高城は記されていない事から、永禄年間時点では足高城は築城されていない、又は取るに足らない存在だった可能性があります。

天正年間の岡見治部大輔治廣が牛久城の城主だった頃、足高城の城主として治広の又従兄弟の子供に当たる岡見中務少輔宗治の名が見られ、城の規模からも、少なくとも戦国時代末期には足高城が牛久城の重要な支城だった事が窺えます。

この頃、岡見氏の本家筋である小田氏は佐竹氏やそれに従った多賀谷氏の台頭によって没落した為、岡見氏は小田原北条氏の後ろ盾を得て、多賀谷氏と対峙していました。

天正14年には多賀谷勢が岡見氏領に侵攻し小張城を突破、足高城では激しい攻防戦が繰り広げたものの牛久城から治広や一族の伝喜入道、豊島氏、高城氏等の援軍が駆け付けた為、何とか撃退に成功しています。

天正15年3月の岡見宗治宛て北条氏照の書状によると「小田原の於いて披見す。仍て其の地に向かい、八崎地と号し、多賀谷取立候也、牛久よりの注進、同前に候、其の地程近くの寄居、誠に苦労是非無く候」と記載されている事から、多賀谷勢が牛久城と足高城の分断を図る拠点を八崎(泊崎)に設けた事が窺えます。

天正16年、多賀谷氏勢が再び岡見領に侵攻し、有力な支城だった板橋城と岩崎城が落城、多賀谷重経は足高城と岡見方の援軍を分断すべく絹川の堤防を切り落としています。

当初は寺田山城守の活躍等により城方が有利に展開していましたが、栗林義長の死去と、宗治の祖父である岡見入道伝喜が多賀谷方に内応した事で、戦局は一気に多賀谷方に傾き足高城は落城、宗治は紀州に落ち延びたとも云われています。

足高城は城中八幡神社を中心に複数の郭で構成され、城域は数百mに及ぶとも云われますが、明確な資料が無く不明な部分が多い城郭です。

現在でも土塁と空堀の遺構の一部が散在しているようです。

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